若き日は過ぎ去り易い――。けれども多彩であり、豊なる収獲がある。それ故に、“若き日”は尊い。「空襲」「敗戦」「父の死」「夢」を鮮烈に綴った作家・田辺聖子さんの76年前の日記発見。姪の田辺美奈さんが、今回の日記発見に至る経緯を明かします。(「文藝春秋」2021年7月号より)

田辺聖子さん ©文藝春秋

◆◆◆

白紙に戻した記念館事業

 伯母は「絶えず書く人だった」と思う。

ADVERTISEMENT

 生涯、700冊以上の著書を残した作家としての仕事ぶりだけでも、そう言えるかもしれないけれども、私がそのように感じたのは、兵庫県伊丹市梅ノ木にある伯母の自宅を整理した際に出てきた原稿以外の書き物の量だった。内容は多岐に亘る。日記、取材ノート、小説の構想、タイトル帳、旅日記、アフォリズム集、献立帳……。気に入ったシールで表紙を飾ったようなものから、和紙で表紙をつけ、題簽(だいせん)まで貼った凝ったものもあった。開いてみると、鉛筆の走り書き、万年筆の几帳面な文字、カラフルなペン書きなど、筆記用具や書き方はそれぞれまちまちで、何かを残すためというよりも、ただ「書く」ことが目的だと感じられるようなありようだった。伯母の「書き物」の山を前に、一緒に片付けをしていた従姉と、思わず同時に声が漏れた。

「おばちゃん、ようこれだけ書いたねえ」

書斎で仕事をする田辺聖子さん

 今回、思いがけず見つかった「18歳の日記」は、伯母が数えの18歳になったばかりの昭和20年4月から22年3月までの日々の記録である。当時、樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)の国文科2年生。向学心に燃えて入学したが、ほどなく学徒動員で、伊丹の飛行機部品工場で働くことになった。その寮生活の様子から日記は始まっている。

 日記の発見の経緯を簡単に記しておきたい。

 伯母の家の片付けを始めたのは、没後(2019年6月6日没)、伊丹市から伯母の自宅を記念館として期間限定で公開したいという提案をいただいたのがきっかけだった。リビングと応接間、そして仕事場を公開すると決めて、それ以外の部屋の片付けを始めたものの、新型コロナウイルスの蔓延で公開事業が延期になり、そのうち、豪雨をきっかけに雨漏りがするようになった。近所に住む従姉がそのたびに応急処置をしてくれたが、そのうちに壁の漆喰がはがれ落ちたり、地下の書庫にカビが発生したりといった不具合も生じてくる。伯母が細部にまでこだわって建てた夢の家も、40年以上の時を経て、主の死と共に終焉に向かっているようだった。

 いたちごっこのように続く細かい家の修繕に疲れ果て、とうとう、私たちは、これ以上家を維持していくことは無理だと判断して、記念館事業も白紙に戻してもらった。

 それとほぼ期を同じくして、NHKから「田辺聖子と戦争」という内容の番組制作のお話があった。従姉と私は、部屋を片付けながら、なにか協力できるような資料がないかを探したが、すでに何度も書いている伯母自身の戦争体験を基にした作品を超えるようなものは何も出てこなかった。