「8月15日」には墨文字が躍る
何度目かの打ち合わせのときだった。私は担当ディレクターの方に、
「伯母と戦争というテーマで番組を作っていただくならば、伯母の作品が一番の手がかりになるかと思います。これ以上、何か新しい資料が出てくるようなことはなさそうだし」
と、お話しした。ディレクターが「方向性がなかなか決まらない」とちょっと困ったような顔をされたそのとき、
「こんなものが出てきた」
と、奥の部屋を片付けていた従姉が部屋に入ってきた。手には伯母の名前入りの見慣れたグレーの紙封筒。表に伯母の字で「昭和20年4月~12月 学徒動員 空襲罹災 父病臥 母、買出しの日々」と書かれてある。奥の和室の押し入れからひょっこり、これ1冊だけが出てきたという。まるで、伯母がちょっと手を貸してくれたような不思議な瞬間だった。
自筆のイラストと、短い詩の書かれた表紙。ぽろぽろとくずれおちそうなページを繰って、私たちがまっさきに探したのは、敗戦の日の記録だ。
8月15日、万年筆で丁寧に書かれた他のページとは異なり黒々とした墨文字が躍っている。「何事ぞ!」のひとこと。家を焼かれても、この戦争を聖戦と信じ、さまざまな苦難に耐えてきた「純粋培養の軍国少女」の、抑え切れない思いがほとばしるように流れこんでくる。楽しいはずの青春を戦争に奪われ、死んでいった若い人々への哀惜はことに深く感じられた。何十年たっても変わることなく幾度も小説やエッセイに書いた伯母の戦争への想いだ。
「〈空襲以前〉〈空襲以後〉で人生がかっきり分れるような大きな体験だった」という昭和20年6月1日の空襲。この日、学校で知らせを聞いた伯母は、大阪の鶴橋駅から福島区の自宅まで約8キロを歩いて帰った。道一本で、生死が分かれるような状況の中を、不安を宥めながら歩き続ける様子が細かく書き留められている。悪い足を引きずりながら、歩き通しに歩いてようやく家の近くまで辿り着いたとき、近所の人から家が焼けたことを知らされた衝撃。
体験したことの興奮がさめやらないうちに書きつけられた文章はあまりになまなましく、読んでいると胸がつまる。
そんな生活の中でも、友人たちとの微笑ましいやりとりや、日常のささやかな喜びもたくさん描かれていることが救いだ。生来、生真面目で、勤勉であった伯母も、この時代なりの青春を謳歌していたようである。