最年長完投勝利を演出した理由
「あれは20年続けなきゃできない記録だ。ぽっと出の投手のことはすぐにエースだと持ち上げるのに、こういう記録は扱わないのか? 新聞がそういうことなら、もう俺は喋らねえ」
答えようもなく俯く私に落合は言い残した。
「200勝のときは九州から北海道まで全部一面なんだろうな?」
落合が山本昌に抱いているのが情なのか非情なのか、私は整理がつかなくなった。
答えが出たのはその年の8月4日だった。山本昌は巨人を相手に自身200個目の勝利をつかんだ。そして落合は、42歳の左腕を最後まで代えなかった。
「きょうは個人の記録だ。日本シリーズとは違う」
前年に完全試合目前の投手を代えた非情の指揮官は、最年長完投勝利を演出した理由をそう説明した。それから語り始めた。
「あいつの初勝利から知っているよ。体のでかい、球の走らないピッチャーだった。クビ寸前だったんだ」
山本昌はプロ4年目まで1勝もできなかった。5年目のベロビーチ・キャンプの後、そのままアメリカへ残された。戦力外と告げられたようなものだった。それが転機になった。マイナーで投げながらスクリューボールを覚えると覚醒した。シーズン途中に帰国して初勝利を挙げると、それから20年間投げ続けてきた。
情でも非情でもなかった、落合監督と山本昌の関係
落合は中日の4番として、巨人の主砲としてその道程を見てきた。遅咲きの左腕がいつも遠征先に4キロのダンベルを持参していたことも、登板前夜は何があろうと日付が変わる前に部屋の灯りを消していたことも知っていたのかもしれない。
「人間どこで運が開けるかわからない。その見本だろ」
番記者たちを前に、まるで自分のことのように語る落合を見て、私は両者の関係が理解できたような気がした。それは情でも非情でもなかった。ある一瞬ではなく恒久的に勝ち続ける、そうあろうとするプロへの評価であるように思えた。
最後に落合は言った。
「この世界には自分でユニホームを脱げる選手と脱がされる選手がいる。あいつにはいつ辞めるか自分で決める権利がある。まだやるなら、この先いくつ積み上げられるか。200勝が墓場にならないようにな」
落合に尻を叩かれ続けた山本昌はその後、50歳までユニホームを着た。
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