「すべてが崖から落ちてしまった」
それでも今回のウクライナ侵攻で、ロシア国内でのプーチンに対する信頼感が揺れているのも事実です。ロシアでは許可なく大規模集会を開いたりデモを行うこと自体が禁止されていて、反体制指導者のアレクセイ・ナワリヌイ氏などは神経剤での襲撃を受けたり逮捕されたりしています。若者はもともと政治への関心が薄いうえに、デモに参加することは就職など将来に直結します。その恐怖があるにもかかわらず1000人規模のデモが頻発していること自体がすでに異常事態なのです。
反プーチン派の動きは他にもあります。昨年ノーベル平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ氏(59)が編集長を務めるロシアの非国営新聞「ノーバヤ・ガゼータ」は、ウクライナへの連帯とプーチン政権への批判的な態度を強め、紙面でも「(ウクライナへの侵攻は)ウクライナの損失よりもロシアの損失のほうがはるかに大きい。ルーブルも未来も、すべてが崖から落ちてしまった」と強い口調で主張しています。
メディアを管理する官庁がロシアの公式発表以外の報道を禁止する通達を出しているのですが、「ノーバヤ・ガゼータ」はそれに堂々と反旗を翻したのです。
ロシア国内でプーチンへの支持が揺れている最大の理由は、侵攻先がほかでもないウクライナであったことでしょう。
ロシアが2014年にクリミアを併合した時は、ほとんどのロシア人は“奪還”に喝采を送りました。それは、かつてロシアの一部だったクリミアの同胞がウクライナ独立後の失政によって苦しんでいて、その人々をプーチンが救出したという意識があったためです。おそらく今でも、クリミア併合については「ロシアに帰ってこられてよかったね」という意識はあまり変わっていないと思います。
しかし、今回のウクライナへの侵攻は状況があまりにも違います。ロシアとウクライナは同族意識も強く、お互いに血縁者も多くいます。
乱暴な言い方をすれば、モスクワにとってのキエフは、東京から見た京都のような位置づけです。その場所を爆撃したり民間人が巻き添えになることに対して、プーチン支持者の中からも「なんでこんなことをするんだ」という嘆きと悲しみの反応が出てきているのです。
現時点で、ロシア国内でプーチンに対するハッキリとした「ニェット」(NO)を掲げる反対派はまだ少数です。「プーチンはウクライナのファシストからロシアを守っている」と軍派遣に賛成する人もまだまだ多くいます。しかしプーチンに対する批判のマグマは溜まりつつあり、目に見えない地殻変動が起きていると私は感じます。
一般のロシア人に話を聞いても「プーチンは誇大妄想に取りつかれている」「大統領でいること自体が恥ずかしい」「身震いするような恐れを感じる」のような強い言葉でプーチンを批判する人が出はじめています。
BBCのロシア版サイトには、たった1人で「戦争反対」と書いたボードやウクライナの国旗を掲げて、武装したロシアの特殊部隊「アモン」に拘束されている高齢女性の写真が掲載されていました。それを見て私は胸が苦しくなりましたが、多くのロシア人にとっても目を背けたい光景のはずです。しかもロシア国内では物価が上がっており、今後の生活についても不安がよぎっていることでしょう。
プーチンの計算違いは、このロシア国民の悲しみと怒りと不安のマグマです。政権は必死に抑え込みにかかるでしょうが、反プーチンの感情を持つロシア人がこれほど現れることは想像できていなかったのではないでしょうか。
親プーチンと見られていたカザフスタンがウクライナへの軍派遣を断っていたことがわかったり、アメリカや西欧諸国が制裁を強めるなど包囲網を強化していますが、ロシアは国際社会から非難されることに“慣れて”おり、こうした圧力がプーチンに軌道修正を強いる決定打になるかどうかは不透明です。
むしろロシア国内でたまる反プーチンという感情のマグマこそが、戦争の行方を左右する大きなポイントだと思います。