「一九八七年十二月八日が、核脅威の増大時代と人類の生活の非軍事化時代とを分ける分水嶺を意味する記念日として、歴史の教科書にのるようにしようじゃありませんか」(ミハイル・ゴルバチョフ『ゴルバチョフ回想録 下巻』工藤精一郎・鈴木康雄訳、新潮社)

 ソ連書記長だったミハイル・ゴルバチョフ(当時56歳)が、時のアメリカ大統領ロナルド・レーガン(当時76歳)とともにINF(中距離核戦力)全廃条約に調印し、上記のように高らかに宣言してから、きょうで30年が経つ。核兵器を削減する条約が結ばれたのはこれが史上初めてであった。

 米ソ両大国がINFの削減交渉(当初の名称は戦略核交渉)を開始したのは、レーガン政権の発足まもない1981年11月のこと。ただし、交渉は難航し、一時は中断した。そこへ来て1985年にソ連書記長に就任したゴルバチョフは、核戦争の脅威やそのほか全世界的課題の解決のため各国の協力を強調する「新思考外交」を展開し始めた。1986年10月のレイキャビク(アイスランド)での米ソ首脳会談でゴルバチョフは、INF問題に関してイギリスとフランスの核兵器を対象外とすることで西側の優位を認め、また極東方面配備のソ連のINFの制限などを提案する。このときの会談で両首脳は、ヨーロッパ配備のINFの全廃でも一致したが、ゴルバチョフが合意の条件としたアメリカのSDI(戦略防衛構想)の制限をめぐって折り合いがつかず、けっきょく決裂にいたった。

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 しかし、ゴルバチョフ政権が「ペレストロイカ」の名のもとに推し進めていたソ連経済の再建のためにも、大幅な軍縮は不可欠であった。1987年2月、ソ連はINFをほかの争点から外すことを提案、4月にはINFの全廃(ゼロ・オプション)にまで踏み込む。これに対しアメリカは7月、INFが配備された西ドイツ(当時)などの各国の合意を得て、9月に訪米したソ連外相シェワルナゼに基本合意を伝えた(猪木武徳・高橋進『世界の歴史 第29巻 冷戦と経済繁栄』中央公論新社)。その後、細部の詰めがなされ、同年末、米ワシントンでの首脳会談における条約調印が実現したのである。翌88年5~6月にはレーガンがソ連を訪問し、INF条約の批准書が交換された。

INF全廃条約に調印するレーガン大統領(右)とゴルバチョフ書記長(左) ©getty

 INF条約調印のため初めて訪米したゴルバチョフは、米副大統領のブッシュ(父。のちの大統領)とホワイトハウスに向かう途中、ワシントン市街で車を降りて市民と交流するサプライズも見せた。同条約の締結は、その2年後の東西冷戦終結への布石となるとともに、1991年から93年にかけてアメリカ・ソ連(91年の解体後はロシア)間で二次にわたり結ばれた戦略兵器削減条約(START I・II)へとつながっていく。