国際社会から非難を浴びている、ロシア軍によるウクライナへの全面侵攻。歴史を振り返ると、かつて日本も旧ソ連(現ロシア)軍による「傍若無人」な侵攻を受けたことがあるのだ。

 ここでは、昭和史を長年取材するルポライター・早坂隆氏の著書『満州とアッツの将軍 樋口季一郎 指揮官の決断』(文春新書)から一部を抜粋。太平洋戦争終戦後、千島列島東端の「占守島(しゅむしゅとう)」をソ連軍に侵攻された日本軍の戦いと、指揮を取った陸軍中将・樋口季一郎の“決断”を再構成して紹介する。

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終戦後の戦い

 8月15日、日本国民は敗戦を知った。樋口の長女・美智子は、札幌の地で玉音放送を聞いた。悔しいという気持ちと同時に、心の隅で何かほっとするものがあったという。

 樋口とは陸軍大学校の同期生であった阿南惟幾は、同日未明、陸軍官邸で自刃。介錯を拒み、絶命した。遺書には「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」とあった。

 樋口家には毎年、阿南からサクランボが送られてきていたという。少し粗めの手編みの籠に入ったそのサクランボは、終戦の年にも届いていた。4女の智恵子さんは、阿南自刃の報を聞いた時、

「まっさきにサクランボが頭に浮かんだ」

 という。

 翌16日、大本営は各方面軍に対し、戦闘行動の即時停止を命令。やむを得ない自衛のための戦闘行動以外、すべての戦闘行為が固く禁じられた。

 満州では、抗戦の続行を希望する声も上がったが、これを強く退けたのは、関東軍総参謀長の秦彦三郎であった。秦は16日に行われた幕僚会議の場において、大命に随順する断を下した。

 樋口も指揮下の全将兵に対して訓示を発した。終戦に関する師団命令は、17日の午後、第一線で交戦中の連隊にまで達し、これをもって現地軍は戦闘を中止した。日本側は、各方面軍に撤退命令を発し、自衛目的の戦闘行動についても「18日午後4時まで」と徹底した。

 しかし、樋口に安堵の気持ちはなかった。果たして、ソ連が本当に侵攻を止めるかどうかという危惧が頭を離れなかったのである。そして、樋口は「ソ連の行動如何によっては『自衛戦争』が必要になるだろう」との腹案を持つに至った。それは、ロシアの専門家として軍人人生の大半を送ってきた樋口が導き出した最後の結論であった。

 樋口の懸念は現実のものとなる。ソ連軍は銃を置かなかった。樺太での戦闘は継続され、それどころか、ソ連軍最高統帥部は千島、南樺太への進攻作戦を新たに発令した。