占守島の戦いの意味
元来、スターリンは北海道の北部を占領する計画を持っていた。しかし、これに強く反対したのがアメリカのトルーマン大統領である。トルーマンは8月18日付のスターリンへの電報の中で、ソ連の北海道占領を認めない態度を鮮明にした。この時、すでに冷戦構造は萌芽していたと言える。
外交上は以上のような経緯があったわけだが、実際の現場において、例えばもし、日本が占守島の戦闘に敗れ、ソ連軍のその後の南下を許していたならば、ソ連軍がそのまま北海道にまで達していた可能性は否定しようがない。
しかし、この占守島の戦いにおいて、日本軍の実力を体感したソ連の首脳部は以後、日本に対して慎重な姿勢を見せないわけにはいかなくなった。ソ連軍の侵攻が遅れている内に、米軍が北海道に進駐した。
占守島の戦闘は、戦場としては小さなものであったが、日本という国の形を守る意味では非常に大きな戦いであった。日本が朝鮮半島のような分断国家となった可能性も十分にあったのである。
この点について、樋口が公に自らを誇るようなことは一切、話していないし、書いてもいない。しかし、孫の隆一氏は、樋口が半ば憤慨した様子で、こんな話をしていたことを記憶している。
「日本の歴史家は、日本の負け戦しか書かない。北方でソ連軍に勝った戦闘には、ほとんど目を瞑(つむ)っている。それはそれで不自然なことだし、非常に残念なことだ」
占守島で戦い、散っていった兵隊たちのことを考えれば、樋口のこの発言も切実な思いから発せられたものであったろう。戦後の日本を覆った歴史認識に対し、樋口は1つの礫を投げつけている。
しかし、同時に樋口はこの戦闘における自らの責任の所在にも強く苛まれた。他のそれまでの戦闘は、言わば「天皇の指示」における戦いである。しかし、玉音放送後に行われた占守島の戦いは、樋口の決断、つまり「自らの指示」によって戦闘が行われ、そして部下が死んでいった。その戦死者への責任は、自分にあるというのである。樋口らしい思考と言えばそれまでだが、であるからこそ、この戦闘の意義をありのままに語り継いでほしいという願いに繋がっていったのであろう。
それにしても、この時期のソ連軍の傍若無人ぶりは目に余る。突然の占守島上陸作戦の後も、8月28日に択捉島、9月1日に色丹島、翌2日には国後島などを不法に占領した。北方領土は今も日本に還ってきていない。
さらに、武装解除した多くの日本兵が、スターリンの命により、シベリアに抑留されたのも周知の事実である。1956年(昭和31年)の「日ソ共同宣言」の際にソ連側は抑留者の総計を6万人としたが、実際には60万~100万人もの日本兵が抑留されたとも言われている。その中で、命を落とした人の数も、10万人近くに及ぶと推計されている。
占守島で戦った将兵たちも、8月23日の武装解除の後、シベリアへと抑留された。強制収容所(ラーゲリ)に収容された彼らは、劣悪な環境の中での重労働を強いられた。1度は叶ったと思われた故郷に帰る夢を実現させることなく、酷寒の地でその生涯を終えた者も少なくなかった。
樋口の盟友であった秦彦三郎もシベリアに抑留された。復員したのは実に10年余りを経た1956年12月のことであった。