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 千島進攻作戦の要項にはまず「占守島の北東部から奇襲上陸し」とある。日本人の大多数が聞いたこともないこの占守島という小島が、日本史に登場することになるのは、この作戦方針に端を発する。

 占守島は千島列島の最北端に位置し、カムチャッカ半島とは10キロほどしか離れていない。この占守島には、第91師団の歩兵第73旅団などが駐留していた。

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凄惨を極めた占守島の戦闘が開始

 8月の占守島は夜明けが早い。午前3時半ともなれば、徐々に辺りは白み始めてくる。終戦の報に触れたばかりの守備隊将兵の多くは、戦争中には感じることのなかった安堵に包まれながら、深い眠りの中にあった。占守島の部隊は、15日の夕方にはポツダム宣言の受諾を知り、武装解除を始めていた。敗戦の報に1度は動揺した将兵たちも、徐々に落ち着きを取り戻し、寝る前には、

「故郷に帰ったら何をしようか」

 と笑みを見せながら話し合った。夢の中で故郷の光景に遊んだ者も、少なくなかったに違いない。

 日付が17日から18日に変わる前後の時間に、幾人かの将兵たちが、謎の砲声を聞いた。周囲はまだ闇である。日本側守備隊に戸惑いの色が浮かび、その後、「敵が上陸中」「国籍は不明」といった情報が錯綜した。将兵の多くは、相手は米軍ではないかと思ったという。

 これが、ソ連軍による占守島への上陸作戦の開始であった。やがて、凄まじい艦砲射撃の支援の下、18日午前1時過ぎには、ソ連軍の上陸部隊が占守島北端の竹田浜に殺到した。

 このような状況を伝える占守島からの電文は、幌筵島の柏原に司令部を置いていた第91師団の師団長・堤不夾貴(ふさき)中将のもとに届けられた。

 この第91師団は、第5方面軍司令官である樋口の隷下にあり、電文は樋口のいる方面軍司令部にもすぐに届いた。樋口はこの時のことを後にこう記している。

 「十八日」は戦闘行動停止の最終日であり、「戦争と平和」の交替の日であるべきであった。(略)然るに何事ぞ。十八日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。斯(かか)る「不法行動」は許さるべきでない。若し、それを許せば、到る所でこの様な不法かつ無智な敵の行動が発生し、「平和的終戦」はあり得ないであらう

(『遺稿集』)

 大本営からの指示では「18日午後4時」が自衛目的の戦闘の最終日時となっている。この戦い自体は疑いようのない自衛戦闘であるが、この日の午後4時を過ぎれば、自衛であっても戦ってはいけない。樋口はこの点に留意した上で、次のように打電した。

「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」

 ソ連軍の日本上陸を水際で食い止めなければならない。もしここで跳ね返さなければ、ソ連軍は一気に南下し、北海道本島にまで迫る勢いを見せるであろう。そうなれば、北海道において、沖縄のような地上戦が勃発することも覚悟しなければならない。

 占守島でソ連軍の上陸部隊と対峙した守備隊の中には、キスカ島から奇跡の撤退に成功した将兵たちの姿もあった。

 深い霧が立ちこめる中、戦闘は凄惨を極めた。1度は終戦の報に接し、故郷に帰った後の日々に思いを馳せていた兵士たちが、血にまみれ、肉片と化して飛び散った。