いよいよプロ野球開幕の日。新生・藤本ホークスは今シーズンどんな戦いを見せてくれるのか。そして、リーグ優勝と日本一の奪回に必要なものは何か。
藤本博史監督のトレードマークといえば立派な口ヒゲだが、ダンディな「ヒゲの鷹戦士」といえばこの人も忘れてはいけない。
通算100勝右腕、山内孝徳さん。現在は東京MXテレビのホークス戦解説でもおなじみ。「俺は本音しか言えん性格」という熊本生まれの肥後もっこすが、藤本ホークスの胸元をズバッと突く!「タカのヒゲダン(談)!」いざ、開幕。(文、構成・田尻耕太郎)
俺がひげを生やし始めたら、南海でも急に増えたんよね
読者のみなさん、こんにちは! ホークスOBの山内孝徳です。藤本監督とは南海、ダイエーで一緒にプレーしてました。トシは俺の方が7歳上。当時からずっと「博史」と呼んでいました。一軍監督へ敬意を払わないといけませんが、ここからは博史と呼びましょう。
博史がホークスの一軍監督に! 最初に聞いたときは“おったまげた”(笑)。え、あの博史が!? でもね、いや彼ほど適材な人間はいないとすぐに閃いたね。プロ野球の監督って、人気とかネームバリューで選ぶところがあったじゃない。いわゆる派手さが重要視されがちだった。正直、博史は地味だよ。でもね、地味だけど一生懸命コツコツと頑張るやつだった。熱心だし、粘っこいというかな。昨年までのコーチ、ファーム監督でもそうだし、俺は南海とダイエーで一緒にやっているからそういう彼の姿はすごく印象深い。だからホークスはそういうところを見て人選してくれたのが、OBとしても本当に嬉しかったよ。
博史が南海に入ってきたのが85年。俺は前年に16勝して、さあこれからという時だった。投手と野手の違いもあるし、彼も最初は二軍だから接点はあまりなかった。でも、体が大きいから何となく目立っていた。それは強豪の天理高校から入ってきたというのもあったけど、博史は大阪の岸和田の近くの生まれやろ。俺は熊本・天草のド田舎の男だけど、なんか似た感じがしたんよ。揉まれているというかね(笑)。根性があるやつが来たなと思ったね。
南海のサードは、藤原(満)さんが長年不動だったけど1982年で引退。その後はレギュラーがなかなか定まらなかった。ドカ(ドカベンこと香川伸行氏)がサードで開幕スタメンの年もあったくらいよ。本当は久保寺(雄二)がな。アイツは勝負強さと根性があって本当に良い選手だったんだよ(現役中だった1985年1月に26歳の若さで急逝)。
その中で博史は、さっきも言ったように地道に一生懸命練習をしてレギュラーになっていった。
で、博史が口ひげを生やし始めたのはダイエーになって福岡移転したタイミング(1989年)だったよな。「なんや博史。オマエ、俺の真似か?」って言った記憶はある(笑)。細かいやり取りは憶えてないけど、どんな風に手入れをしているかとか訊かれたと思うぞ。だから小さなハサミで毎朝こうやって整えてるんだという話は確かしてやったな。なんでも彼のお祖父さんが目を悪くして、すぐに自分が分かるように生やし始めたんだってね。あの頃、岸川(勝也)もいて、2人とも似たようなガタイで顔もデカかったからな(笑)。
博史はダイエーになってからバリバリのレギュラーになった。俺は初年度こそたくさん投げたけど、出番を減らしていった。南海の頃は「ヒゲの孝」って呼ばれたけど、福岡のファンに馴染みがあるのは博史の方。だから当時、福岡の街を歩いていて2回くらい「藤本さん、頑張ってください!」って声を掛けられたよ。相手はホークスのファンだし悪気もないし、「は~い」って返事しましたけど寂しかったなぁ(笑)。
大体、博史の前にもホークスでは何人か口ひげを生やしていたけど、あの時代では俺が最初だったからな。1984年に16勝して、「よし20勝するまでひげを剃らん。願掛けや」って始めたことだった。その後も毎年2桁勝つけど結局20勝には届かなかった。だから、今も生やしたままなんよ。俺がひげを生やし始めたら、南海でも急に増えたんよね。河埜(敬幸)さんとか立石(充男)とか。(山内)和宏もな。アイツも俺のことをライバル視したのか知らんけど、最初は俺だったからね(笑)。