文春野球の読者の皆さん、はじめまして。tbc東北放送アナウンサー林田悟志です。

 文春野球の初コラムのテーマは、同郷の千葉県出身、母校・早稲田大学の後輩にもあたる、「早川隆久投手のルーツ」を取り上げたい。

早川隆久 ©時事通信社

 20年ドラフト会議で4球団競合の末、楽天イーグルスに入団した早川投手。千葉から東京・早稲田を経由し、そして東北の杜の都・仙台と辿り着いた私は、誠に僭越ながら早川投手に自分を重ねて見てしまう事がある。

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 ルーキーイヤーの昨年は、開幕カードでプロ初登板初勝利を挙げると9勝をマーク。ピンチの場面でも表情一つ変えず淡々と相手バッターと対峙していく姿は、とても新人とは思えなかった。そんな堂々とした性格は一体どこから生まれたのだろうか?

 出身は千葉県横芝光町、九十九里浜のほぼ中央に位置する港町。水と緑に恵まれ、年間平均気温は15度と暖かく、年間降水量は1300ミリ程度。穏やかな気候を生かした農産物の生産が盛んである。そんなのどかな環境で隆久少年は生まれ育った。

 小学生時代に所属していた『上堺ソフトボールクラブ』。

 早川の小中学生時代を知る当時の監督に話を聞くと、「(小学生時代の隆久少年は)口数は多くないが、言われたことを忠実に守って実行できる優しい子」だったそうだ。

 地元の横芝中学校に進学し、軟式野球部に所属する。そこには、同級生に川口君という素晴らしいピッチャーがいた。入学から2年生くらいまでは川口の方が目立っていて、早川はそこまで目立った存在ではなかった。

 それでも、誰よりも練習熱心だったという。普段の部活動とは別に、野球部員が毎週水曜日、町の野球場でナイター練習をやっていた。早川は同級生の川口の隣で黙々とシャドウピッチングを続け、それが終わると球場の周りを何週も走っていた。身近に良き仲間、良きライバルがいたことが刺激になったのだろう。とにかく向上心が強かった。さらに、父親が元陸上選手ということもあり、父からはとにかく走れ、と言われてきた。

 すると3年生になって、川口と肩を並べるくらいに成長した。3年生の春の千葉県大会出場をかけた試合で、21個のアウトのうち16個を三振で奪うという素晴らしい成績を残した。この試合が、高校でも野球を続けようと決断するきっかけになったのではないだろうか。

高2の春のセンバツ 際どい判定に涙した早川

「野球王国千葉」。その礎を築いたのは、夏の甲子園で1974年~75年にかけての千葉県勢の連覇であった。当時優勝した銚子商業と習志野の他、拓大紅陵、市立船橋、成田、千葉経済大付、東海大浦安。強豪校を挙げればキリがない。

 そんな千葉県勢で近年力をつけてきたのは、木更津総合。2003年に夏の甲子園初出場を果たすと、夏だけですでに7回も全国の舞台を踏んでいる。

 2014年、早川はそんな県内の強豪校の一つ、木更津総合高校に進学する。千葉県の外房から内房へ、九十九里浜から東京湾へ、野球の拠点を移すことになる。関東の地理に詳しくない方には、チーバくんの後頭部からお腹の辺りと言った方が分かりやすいだろうか(もっと分かりにくいかも知れない)。

 高校時代も着実に力を伸ばし、2年生の秋から背番号1を背負う。エースとして臨んだ初の全国大会、早川の運命を変えた一戦がある。

 2016年3月28日 春のセンバツ 準々決勝の秀岳館戦――。

 木更津総合は4回に上げた虎の子の1点を守り、1-0で最終回へ。先発し1人でマウンドを守り続けた早川は、9回も2アウト2ストライク。勝利まであと1球のところまで来た。そこで投じた右バッター内角へのストレート。いわゆるクロスファイアー。いいコースに見えたが……球審の右手は挙がらなかった。

 結果的にそのバッターを四球で歩かせると、そこからまさかの連打を浴び、逆転サヨナラ負け。その試合以来、右打者への内角直球の意識が変わった、という。「あの1球がなければ今の自分はない」。楽天に入団した際、こう当時を振り返っていた。

 3年夏の甲子園では2試合連続完封勝利。準々決勝で今井達也擁する作新学院に敗れたものの、全国大会ベスト8。そしてU18日本代表選出、堂々たる成績を残した。

  「高校生の頃にプロ志望届を出していても、ドラ1競合だっただろう」。楽天イーグルスが早川をドラフトで引き当てた際、元スカウトの上岡良一氏がこう語っていた。しかし早川はプロ志望届を出さなかった。もっとレベルアップしてからでないとプロの世界ではやっていけない。そんな思いがあったようだ。

 どれだけ貪欲なんだろう。自分を冷静かつ客観的に分析する能力が、18歳にして備わっていた。