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「どーもー、○○でーす」と五七五七七のリズム

 短歌もまた、「この歌はどんな人が詠んだのか」ということを意識しながら読む。漫才と違って、直接顔は見えない。でも、作品から浮かび上がる人格と、短歌に添えられている作者名とを重ねながら読むのである。

 そしてここにもまた漫才と同じ問題が生まれる。現実に存在する作者の人格と、作品の中に見えてくる語り手の人格が、本当に一致しているといえるのかわからない。たとえば俵万智には「パスポートをぶらさげている俵万智いてもいなくても華北平原」(『サラダ記念日』)という、作者のフルネームがそのまま入った短歌がある。だが現実の俵万智がパスポートをぶら下げていたかどうかは本人にしかわからない。どこまでが現実でどこまでが架空であるのかの線引きはとてもあやういもので(そしてそのあやうさに自覚的なので「いてもいなくても」と詠んだのだ)、だからこそ普通のフィクション以上にどきどきする危険さを放っている。

舞台に立つとろサーモン

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 私自身短歌を作るときは、そこに現われている語り手が本当の自分をどこまで反映しているのかわからなくなるときがある。よく思われたくてかっこつけていないか疑ってしまうこともある。でも、これは漫才のようなものなのだと考えれば楽になれるのだ。漫才であれば「どーもー、○○でーす」と元気よく挨拶して入れば、短歌であれば五七五七七のリズムに乗れば、たちまち山田航の顔かたちのまま誰にでもなれる不思議な人格が生み出されるのだ。私は元来フィクションに興味がない質なので、完全な空想は書けない。でも完全なノンフィクションだと書くことは尽きてしまう。だから漫才や短歌くらいの、嘘とも本当ともいえないくらいの語り手のあり方がちょうどいいのだ。