一緒のテニスの回数は……
徳川は「それから後は大体1週に1回ぐらいの割りで〔明仁皇太子は美智子と〕テニスクラブで顔を合わせ話をし、親しくなることに努められた」と続ける。「テニスクラブ」とは、麻布の東京ローンテニスクラブ(以下、東京ローンクラブ)である。徳川は、週1回という頻度で交流したと証言した。しかし、交流がそれほど頻繁であったかは疑わしい。
東京ローンクラブでのテニスは、結婚前のデートのように受け止められている。皇太子は以前から会員であり、美智子は5月15日に会員となった。美智子はなぜ、都合よくテニスクラブに入会したのだろうか。
おそらく、次の誘いが用意されたからだろう。当時、東京五輪の前哨(ぜんしょう)戦として第3回アジア競技大会(5月24日~6月1日)が開催直前だった。そこにイラン皇弟来日の予定があった。国際親善を兼ね、テニスを趣味とする皇弟と皇太子が一緒にプレーする計画が持ち上がる。皇太子は妹の貴子内親王とペアを組むため、イラン皇弟にも女性ひとりが必要になった。そこで美智子が誘われた。
「英語もテニスも堪能だから」と理由を付ければ接伴(せっぱん) 役を頼みやすい。「練習をするから」との名目ならクラブへの勧誘も不自然ではない。
東京ローンクラブに入会した美智子は5月21、31日の2回、皇太子とテニスの練習をした(以下、テニスの日付は「織田和雄日記」を参照した)。6月1日にイラン皇弟との親善テニスがあり、美智子は予定どおり接伴役を果たした。皇太子と美智子のテニスは、前年を含めここまでで計6回となる。
イラン皇弟の接伴が終わっても二人は東京ローンクラブでテニス交流をした。6月9日は確実である。しかし、その後のテニス交流はそう頻繁ではない。明仁皇太子は6月23日~7月10日までの18日間、北海道行啓に出掛け、7月18日~25日は葉山御用邸で静養した。この間、物理的にテニスはできない。7月16日に美智子を誘ったテニスが計画されたが、テニス仲間である織田の連絡ミスで実際は流れた(『天皇陛下のプロポーズ』)。7月に2人がテニスをした形跡はない。
明仁皇太子は8月1日、静養のため軽井沢に移動し、美智子も8月3日、同じく軽井沢に移動した。軽井沢のテニスの場で二人が会ったのは、おそらく2回だ(8月7日、10日)。8月13日、皇太子の学友の別荘でのパーティーで、皇太子と美智子がダンスを踊った事実も確認される。しかし、これが、婚約発表(11月27日)までに、2人が会った最後であった。その後、3ヵ月半、2人は一度も会っていない。
婚約発表までのテニスの交流は、10回を少し超える程度であろう。徳川の言う週1回の頻度は、誇張した言い方だ。
そもそも美智子は明仁皇太子との結婚を意識していなかった。純粋に皇太子とテニスの練習をしただけである。逆に、結婚をまったく意識しなかったから、気軽にテニスができたのだ。テニスは2人きりのデートでもないし、結婚を前提にした交際でもない。
徳川ら学友の証言は、恋愛を過度に物語化する。スポーツを通じて距離を縮めたとするストーリーになっている。