2017年9月3日、眞子内親王と小室圭さんの婚約内定が正式に発表された際、天皇陛下が結婚を認める裁可を行ったと発表された。皇族の結婚に天皇の裁可が必要なのは、明治時代に明治皇室典範で定められた「同等性の原則」に外れる身分違いの結婚を認めるべきではないという考え方が根底にある。
しかし昭和の時代には美智子妃をはじめ、皇族の結婚相手の「平民性」がメディアなどで強調されて大衆の憧れの的となった。
ここでは、元皇室記者の森暢平さんが皇室の歴史を“恋愛”という切り口で紐解く『天皇家の恋愛』より一部を抜粋。激しいバッシングを受けた眞子さんと小室圭さんの結婚は、歴史上どんな意味を持ちうるのだろうか。(全2回の2回目/前編を読む)
◆◆◆
同等性原則の究極的解除
同等性の原則から言えば、小室は同等性から大きく外れる「平民」である。父も母も、学習院を出たわけでもなく、経済界に華麗な血脈があるわけでもない。小室はICUに進学し、たまたま眞子内親王に出会っただけだ。2人は、互いの意思で交際を開始し、結婚すると決めた。昭和期であれば、2人の関係は恋愛と強調され、小室の平民性も賛美されたに違いない。
明治期以降、11人の内親王が結婚した。内親王の結婚は必然的に「降下婚」になる。そのため相手との格差はなるべく小さいほうが好ましいと考えられてきた。戦前、内親王の結婚相手すべてが皇族であり、1966年までは旧伯爵家以上が選ばれたのはそのためだ。内親王の通婚範囲は、心理的には男性皇族より強い制限が掛かり、格差婚は避けられていた。
皇族・旧華族以外と結婚した内親王は、眞子内親王以前、三笠宮容子(まさこ) 内親王と清子内親王の2人に過ぎない。ただ、容子内親王は茶道家元という伝統ある家の跡取りと結婚した。
清子内親王の相手も、その平民性が結婚の前提となったわけではない。黒田の父祖はたしかに旧華族ではなかったが、その係累は旧華族とつながる。黒田自身、学習院大学を卒業している。黒田は秋篠宮と同級生であり、その信頼の厚さが結婚の背景にあった。学習院コミュニティーのなかでの結婚である。通婚制限は、戦前とは異なる形ではあるが、かろうじて守られていた。
これに対し、小室は、過去の内親王の結婚相手とは大きく異なる。その家系は、日本の“セレブリティー”とは一切関係がない。
同等性の原則を緩和してきた皇室の結婚の歴史から考えると、原則解除の究極の形が、眞子内親王と小室の結婚だった。