1958年11月27日に婚約を発表した明仁皇太子(現上皇)と正田美智子さん(現上皇后)は「皇室史上初めて恋愛結婚をしたカップルである」と繰り返し語られてきた。
しかし元皇室記者の森暢平さんは、正田美智子さんが候補に挙がる以前から選考チームによる皇太子妃候補の検討は始まっており、良家の子女が在学していそうな学校からの推薦リストの中に、以前から皇太子の知り合いであった美智子さんの名前があったのが皇太子妃候補となったきっかけではないかと指摘する。
ここでは森さんの著書『天皇家の恋愛』から一部を抜粋し、明仁皇太子と美智子さんの距離を縮めたとされる「テニスデート」の裏側を紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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美智子を選んだのは誰か
正田美智子は選考チームの主導で選ばれた。それにもかかわらず、「明仁皇太子が自分の意思で美智子を選んだ」と受け止められるのはなぜだろう。
明仁皇太子ともっとも仲がよかった徳川義宣(よしのぶ)の説明を見ていきたい(徳川義宣寄稿)。「美智子さま神話」が広く信じられるようになるのも、徳川ら学友の説明による部分が大きい。徳川は婚約直後、共同通信社に寄稿し、婚約までの経緯を説明した。徳川は次のように述べる。
冬を越え、殿下〔明仁皇太子〕と正田さんは会う機会もなく、また積極的に会おうという動機もまだ生まれていなかった。冬も過ぎて何かの話のおりに正田さんの事が話題に上ったとき、殿下は初めて自分の妃候補として彼女を思い返してみたそうだ。考えてみれば自分の理想にかないそうな人だと思いついて、いろいろくわしく事情を調べるよう手配させ、自分の気持もはっきりさせる事ができたので、この人こそと一本ヤリに決めこんだのだそうだ。(『防長新聞』1958年11月30日)
明仁皇太子が美智子をふいに思い返したと、徳川は解説する。皇太子が「正田さんも調べてみたら」と軽く示唆したとする報道もなされ(『週刊朝日』1958年12月14日号)、美智子を選んだのは皇太子自身であると長らく語られてきた。
しかし、実際は、各学校からの書類や写真を見ているとき、そこに美智子を見付けたのではないか。毎日新聞記者の藤樫準二が、東宮侍医の佐藤久(さとうひさし)から聞いた話によると、明仁皇太子は各学校から来た写真を「これは丸顔だね」などと側近と話しながら書類をさばいていた(『毎日新聞』1996年10月1日夕刊)。
想像するに、美智子が見いだされた経緯は、次のようなものではないか。すなわち、聖心女子大学の推薦リストのなかに、前年にテニスをした美智子があった。皇太子は、粘り強いプレーや、意見をはっきり言う性格を思い返し、彼女も妃候補になると考えた――。