小泉(編注:選考チームの一員。東宮職御教育常時参与)は、のちに「殿下〔明仁皇太子〕のみる所と、われわれの意思が一致したのだが、どちらかといえば、われわれの方が先だった」と述べた(『週刊朝日』1958年12月14日号)。学校推薦の候補のなかから、美智子をピックアップしたのは選考チームが「先」であったと小泉は強調する。
黒木(編注:選考チームの一員。東宮職侍従)もまた、決定権は選考チームにあったと証言した。「〔皇太子は〕宮内庁の我々、事に携わる者たちの客観的な調査をまたれ、果たしてご自身の中に芽生え始めたお気持ちが許されるものであるか否かをお確かめになったのであった。もしこの時お相手の方が妃殿下に適(ふさわ) しくないとの結論が出たとしたら殿下は恐らく断念なさったと私は思う」(黒木従達回想)。皇太子の意思より、選考チームの意向が優先した。
皇太子と宮内庁の共同作業
徳川の寄稿には、もうひとつ重要な事実が述べられている。つまり、明仁皇太子が、美智子を「一本ヤリ」と決めて以降、「一つの目的のために方針は決められ、五月にテニス大会があった時を利用し、殿下はその後の再会の場所、時間などまで決められた」との一節である。
「5月のテニス大会」は1958年5月4日に調布市の日本郵船コートで行われた。皇太子の仲間がつくった「ルプスの会」が主催した。ルプスとはラテン語で狼(おおかみ) を意味する。皇太子の学友たちが結婚適齢期となり、テニスを通じた相手探しを行う会だった。いまで言えば、婚活サークルであろう。
徳川の説明では、明仁皇太子自身が「再会の場所、時間」を決めたことになっている。しかし、宮内庁選考チームとの連動に注目すべきだ。少なくとも小泉と黒木は4月中には美智子を皇太子妃候補とする腹を決めていた。調査と同時並行で「出会いと交流」の場を設けようとしたのではないか。
つまり、皇太子が独力で場所と時間を決めたのではなく、選考チーム、とくに黒木と相談し、美智子を誘う状況を考えた。半年ぶりの再会は、皇太子と小泉・黒木との共同作業であった。