神話が崩れた時、精神的にどのような作用がもたらされるのかは人によって異なるはずですが、日本ではたいていの場合「誰かが悪い」という話になります。ここでも他人の足を引っ張る、不寛容な社会という特徴が顕著に表れています。
もし、こうした感情が日本における自己責任論の背景なのだとすると、それはもはや経済活動における自己責任論とはまるで異なる概念と言わざるを得ません。
不可抗力や権利を有する事柄についてまで自己責任の用語を使うことについては、社会的にしっかりと抑制していかなければ、弱者へのバッシングにつながりかねません。そして生活保護の領域ではこの問題がかなり深刻化しています。
バッシングの道具になっている自己責任論
生活保護の申請は国民が持つ権利ですが、現実には「住所がないから申請できない」など不当な理由で追い返されるケースが後を絶ちません。
申請者の親族に対して援助できるか問い合わせを行う扶養照会も、申請を諦めさせる手段として多用されています(生活保護申請者が親族から虐待を受けている可能性もあるため、扶養照会は重大な人権侵害を引き起こす可能性があり、先進諸外国ではほとんど行われていません)。
生活が困窮したのはすべて本人の責任であり、支援する必要はないという考え方になりますが、これは明らかにダブルスタンダードといってよいでしょう。
生命が脅かされる危険な状態であっても、経済活動の結果について、すべて自身が責任を負うべきだという概念がコンセンサスを得ているのなら、政府が行ったコロナ関連の支援策は全否定されるべきですが、現実はそうではありません。
すべてが自己責任ならば、企業にリストラされるのも自己責任なので公的な失業保険も不要となります。米国のように年金や医療も民営にしてしまえばよいでしょう。ちなみに、自己責任社会の頂点に立つ米国ですら、生活困窮者向けには公的な医療制度や年金制度などが整備されていますし、今の日本で年金と医療を民営化してしまったら、保険料は跳ね上がり、多くの国民が満足な医療を受けられなくなるでしょう。
結局のところ、今、声高に叫ばれている自己責任論とは、弱者に対するバッシングを行うための道具に過ぎず、経済活動における自己責任とは異質のものとなっています。こうした歪んだマインドは、社会的に問題があるのは当然のことですが、健全な市場メカニズムを阻害するという点において、経済的な悪影響も大きいのです。