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「何を考えてるのかわからない」と言われがちな阪神・矢野監督に、いま必要なこと

文春野球コラム ペナントレース2022

2022/05/29

プロ野球の監督は、なぜここまで批判されるのか?

 原辰徳ってムカつく。そう嘯く阪神ファンは珍しくない。昨今のコロナ禍にあって、いまだグータッチには抵抗のあるわたしなんぞは、間違いなくその一人である。

 ただ、原辰徳は無能だ、と思ったことはない。一度たりとも、ない。何しろ、星野仙一さんを抜いてプロ野球歴代勝利記録のベスト10に突入した監督である。この人が無能だとすれば、阪神の歴代監督はどないやねんという話になってしまう。

 ところが、巨人と聞いただけでオートマチックに心の中指が立ってしまう度を越した阪神ファンでさえぶつけないような罵声を、ネット上で原監督に投げつけている人たちもいる。原辰徳は無能だ、だから解任すべきだと彼らは叫ぶ。巨人ファン(の一部)である。

 直接対決の時だけチラ見する他球団のファンと、ほとんどの試合を見守るファンとでは見えてくるものが違う、ということはあるだろう。阪神ファンには見えない原監督のアラが、一部の熱心な巨人ファンには見えてしまうのかもしれない。

 ただ、そうした点を差し引いても、原監督でさえ無能呼ばわりされることがあるという現実にはちょっとびっくりする。というか、近年、監督という仕事がどんどんと因果なものになったようにわたしには感じられる。このコロナ禍の中で、特に。

 無能呼ばわりされているのは原監督ばかりではない。ファンや球団から三顧の礼をもって迎えられた感のある中日・立浪和義監督でさえ、はや采配や能力を疑問視する声が大きくなってきている。以前であれば、新監督とファンの蜜月関係はもう少し長く続いていたような印象があるのだが 。

 ともあれ、原監督にしろ、立浪監督にしろ、そして矢野燿大監督にしろ、彼らを批判、非難する人たちの根拠というか根っこになっているのは、こんな思いらしい。

「何を考えてるのかわからない」──ゆえに理解不能、無能。

 わたしの考える野球の監督とは、「決断を下す人」である。誰を、どんな状況で、どんな順番で使うか。代えるのか、代えないのか。打たせるのか、送るのか。継投か、続投か。様々な選択肢の中から、最善と思う一手を選び続けていくのが監督の仕事だと思っている。

 そして、各々の決断によって、自信の度合いは違っているはずだ。たとえば、佐藤輝明。彼を先発で使うことに、迷いを覚える監督はいない。ファンも、先発起用に疑念を差し挟んだりはしない。言ってみれば、内情は100対0に近い決断である。

 ならば、糸原健斗はどうか。勝負強い打撃には定評がある反面、守備範囲の狭さを指摘する声も多い。では、守備力で上回る山本泰寛や熊谷敬宥、小幡竜平を使うべきなのか? 打てずに負けることの多い現状で? 意見は割れるだろうし、誰を使うにしても、わたしだったら51対49の決断になる。

 というか、監督が下す重要な決断のほとんどは、51対49ではないかとも思う。

 コロナ禍以前であれば、阪神に限らずどの球団も、試合前のベンチに監督がどっかりと腰を下ろし、番記者たちが取り囲むというのが風物詩になっていた。記者たちはそこで、前夜聞けなかった質問をぶつけ、決断に至った監督の真意を聞くことができる。監督の側からすれば、ベンチでの雑談は「51」を選択した理由、「49」を選択しなかった理由を説明する場でもあった。

 5月26日の楽天戦でも、まさにそんなシーンがあった。0対0で迎えた8回裏、1死から長坂拳弥が安打で出塁。続く北條史也の犠打で2死二塁としたが、矢野監督は長坂に代走を送らなかった。結果、近本光司のレフト前ヒットで本塁に突入した長坂はタッチアウト。多くのファンから「なぜ、長坂に代走を送らなかったのか」という声が噴出した。

 試合後、矢野監督は「延長12回という難しさがあった」「拳弥も(足が)遅いわけじゃない」というコメントを残しているが、コロナ禍前であれば各メディアがさらに深掘りして、矢野監督の意図を詳細に報道することもできたはずだ。

 コロナ禍は、そうした場を完全に奪ってしまった。ファンはもちろん、メディアの中からさえ「何を考えてるのかわからない」という声が出てしまうのも、当然と言えば当然である。もちろん、機会を奪われたのは矢野監督だけではない。ただ、奪われてしまった影響をもっとも強く受けたのは矢野監督ではないかとわたしは思う。

矢野監督 ©時事通信社

 時代とともに様変わりしたとはいえ、いま巨人が日本で一番人気があるチームだという見方に与する人は多いだろう(異論はもちろん認めます)。だが、チームを取り囲むメディアの数が日本一多いのはどこかと言えば、これはもう、ダントツで阪神なのである。