5月11日、お笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」のメンバーの上島竜兵さん(61)が東京都中野区の自宅で亡くなっていたことが分かった。
世代を超えて、多くのファンに愛された上島さん。当初の夢は俳優になることだったという。俳優への憧れ、上京時の苦難、ダチョウ倶楽部結成秘話、故・志村けんさんとの思い出を語った「週刊文春」の記事を公開する。(初出:週刊文春 2018年3月8日号 年齢・肩書き等は公開時のまま)
〈全2回の2回目。前編・「週刊誌に書かれたら」やらなかった西田敏行のものまね、妄想ポスター100枚を庭で燃やして上京 を読む〉
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父親が自己破産、家族と行徳へ移り住む
〈高校卒業後に上京する意志を父親に伝えると、資格を取ってからがいいと勧められ、79年に神戸の東亜経理専門学校に入学。だが、次第に通わなくなり、上京資金目的のアルバイトに精を出す。そして妄想映画ポスターを全て燃やして決意を固め、ついに東京へ。だが、現実は厳しかった。〉
後谷君が原宿の美術学校に入って既に上京していたので、目黒の彼の下宿部屋に居候しました。でも青年座の研究生に受かって1年経ったころ、お袋が直腸ガンで倒れて、青年座を辞めて帰ることになったんです。後谷君がケーキを買ってお別れパーティーを開いてくれて「いろいろ大変だな」って大泣きしてくれたのは忘れられない。1年後にお袋が退院したので再上京して青年座を受け直したけど、パントマイムの試験で声を出して落ちた(笑)。最終的にテアトル・エコーの夜間部に入って、下宿も目黒の後谷君の部屋の下に移りました。ところが、今度は俺と入れ替わるように彼が神戸に帰ってしまったのは寂しかった。
部屋は八畳一間の風呂なし共同便所で家賃は1万8000円、目黒駅から雅叙園のある坂を降りた目黒川沿いにあって、近くのカカオの加工場から出る匂いがドブみたいに臭かったのをよく憶えています。ただ、当時の中目黒は夜になると屋台が出てきて風情がある場所でした。馴染みの店を作ろうと、おでん屋に入って店のおばちゃんに「神戸から出てきたんだけど、おばちゃんはどこ出身?」と聞いたら「なんで教えなきゃいけないの!」と叱られて寂しく帰りました。中村雅俊の青春ドラマみたいな毎日を送れると考えていたけど、甘かったね(笑)。
〈再上京から1年、役者修行に本腰を入れた矢先、ノーリツを辞めて会社を興した父親が自己破産。神戸からやってきた家族と、千葉県市川市行徳へ移り住む。〉
お袋のガン治療が終わったら、今度は親父の破産だからね。行徳に借りたアパートは風呂付きで、台所に六畳二間で家賃4万円くらい。弟は大学を休んで働いて、お袋も結婚式場の掃除婦を始めてね。でも親父はなにもせず、テレビばかり見ていた。俺もエコーに通って、経団連会館ビルで配膳係のバイトをして大変だったけど、時給もいいし余った料理も食えて、辛くはなかったですね。芸人になってからもそこで働いていたけど、なぜか上司に気に入られてね。ライブがあってフルで働けない時は、お前だけ特別なといって短い時間でタイムカードを切ってくれましたね。
当時、エコーにいた寺門ジモンと一緒のクラスになったんです。あいつも端役ばかりで、次のクラスに進めなくて。それで役者より芸人になったほうが芸能界に進みやすいから、お笑いやろうと誘われたんです。芸人になるとは考えていなかったし、役者への未練もあるから、友人たちが作った劇団に参加させてもらったりしてた。その間も待っていた寺門の説得に根負けして、ダイナマイト・ボーンというコンビを組んだけど、ウケなかったですね(笑)。