映画監督の伊丹十三が64歳で亡くなったのは、いまから20年前のきょう、1997(平成9)年12月20日のことである。その年の9月に監督10作目となる新作『マルタイの女』が公開されたばかり、しかも自殺とあって人々に衝撃を与えた。
伊丹十三(本名・池内義弘、通称は岳彦)は、1933(昭和8)年、映画監督の伊丹万作の長男として京都に生まれた。愛媛県立松山南高校を卒業後に上京し、商業デザイナーを経て、1960年に映画会社の大映に入社、「伊丹一三」の芸名で俳優となる。以来、『北京の55日』『ロード・ジム』などの欧米の映画を含め、数多くの映画やテレビドラマに出演した。
「十三」に改名してまもない1968年、伊丹は作家の虫明亜呂無(むしあけあろむ)の取材を受け、「ぼくは色んなことやったし、色んなことを、役に立つことを知っている。そして、その役に立つことを普及もしてるんですけれど、ぼく自身は無内容な、空っぽの容れ物にすぎない」と語った(虫明亜呂無『仮面の女と愛の輪廻』清流出版)。その言葉どおり、伊丹は俳優以外にもさまざまなことに手を染めた。エッセイ、イラスト、本の装丁、テレビ番組やCMの制作、レポーター、雑誌編集……どれをとっても一流だった。そして最終的に映画に行き着くことになる。それまでの彼の仕事に貫かれてきた冷徹な観察眼、軽妙洒脱なセンスは、すべて映画に注ぎ込まれたといっていい。
本格的な監督第1作となる『お葬式』(1984年)は、夫人で女優の宮本信子の父親が亡くなったときの経験をもとに、葬式を行なう過程で繰り広げられる人間模様を描いて大ヒットとなる。伊丹が自主製作したこの映画は、じつは当初、大手の映画会社からことごとく配給・上映を断られていた。だが、ATG(アート・シアター・ギルド)の配給による単館上映で話題となったため、大手の会社があわてて配給権を買い取り、あらためて全国公開されたのだった。以後、伊丹は1~2年に1本というハイペースで新作を発表していく。映画評論家の白井佳夫は、急き立てられるように映画を撮り続ける伊丹の姿に「何か痛ましいものを感じる」一方で、映画の魔力に魅入られるがあまり「人生という画面に伊丹十三というドラマを描いていたのかもしれない」と、彼の没後に語っている(『NHK 知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 永井荷風/伊丹十三』日本放送出版協会)。
没後10年が経った2007年には、その足跡をたどる伊丹十三記念館が松山市に開館、それと同時に伊丹十三賞が創設され、第1回(09年発表)の受賞者には「ほぼ日刊イトイ新聞」主宰の糸井重里が選ばれた。その歴代受賞者にはやはり分野を横断して活躍する人物が目立つ。第9回を数えた今年も、俳優・音楽家・文筆家と幅広く活躍する星野源が受賞している。