お金を払って食べるプロの料理と無償の家庭料理は別ものである——。料理研究家の土井善晴さんは、「レストランで食べるような料理を家で食べたい」という過剰な要求から家庭料理という文化を守るために原点に戻り、「一汁一菜」に行きついたという。
ここでは、土井さんが新潮社の月刊誌「波」で連載していた「おいしく、生きる。」を土台にまとめた一冊『一汁一菜でよいと至るまで』より一部を抜粋。日本料理の修行のために入った「味吉兆」(編注:吉は土に口)での土井さんの経験と“レジェンド”であるご主人の中谷文雄さんについて紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)
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日本料理がわからないと自覚する
フランスを後にし、82年に帰国した私は実家に戻り、料理教室で父(編注:料理研究家・土井勝さん)の料理番組の撮影などメディアに関わる仕事のアシスタントを始めます。すでに24歳になっていました。
夏の始まりのそんなある日、父にぬか漬けを盛るように頼まれます。父は家でお手伝いを頼むような何気ない感覚で頼んだと思います。しかし私には大きな出来事になりました。今の私がどなたかに盛り付けのコツを聞かれたら、「自分の思うように、食べる人が食べやすいように普通に盛ればいいですよ」と答えるでしょう。
それは本当にそうなのですが、その「普通に盛る」とは何か、そこが私にはわからなかった。どの器を選び、どのように包丁をしてどう形づくるのか、それを判断する何の手立ても私にはなかったのです。この「わからなさ」がその後の料理人生で、常に問題となるのです。
とはいえ、その時はただただ、途方に暮れました。父の盛り付けの上手さには定評がありました。料理には道理があるし、盛り付けには、良し悪しがあることも知っていたのです。何かしら手順を踏めば到達する可能性を知りつつも、その手立てが私には何もない。ショックでした。お漬物を前に、手も足も出ない。
そのとき、自分は和食を何にも知らないと自覚したのです。なにもできない自分に、頭がクラクラして上気し、脂汗がタラタラと流れました。日本料理がわからないことがわかったのです。そのとき日本料理屋で修業することを決めたのです。