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「フェッショナルにならなあかん」料理研究家・土井善晴だけが教わった「味吉兆」主人の“レジェンドのレシピ”

『一汁一菜でよいと至るまで』より #1

2022/05/19
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 ですから、運よく「味吉兆」に入ることができ、私は幸運でした。はじめてご主人にお会いした時に志を聞かれ、「ええ仕事がしたいんです」と答えたのを覚えています。ご主人は「フェッショナルにならなあかん」と返事をされました。何のことって、すぐわかりましたがこれが「プロフェッショナル」のことなんですね。

「味吉兆」の堀江店と大丸心斎橋店(現在は閉店)で仕事をさせていただきました。ここでは皆が、「ええ料理」「ええ仕事」を心に置いて仕事をしていました。曖昧な言い方ですが、「ええ料理」とは結果だけではなく、そのプロセスや考え方、すべての行為や物事の良否の基準を含む万能の言葉でした。それは調理場だけに向けられたものではなくて、洗い場のパートさんにとってはお客様のために器を丁寧に扱ってきれいに洗うという意味になりました。

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 何事においても、ただ「ええ料理」を求めて「ええ仕事」をする瑞々しい空気がありました。今でもそんな言葉が通用するのかわかりませんが、当時は「ええ料理」「ええ仕事」の一言で十分。そういった意識を皆が心においていた料理屋でした。なにかの用事で外に出る時にも、味吉兆と刺繡の入った割烹着を着ていることには誇らしささえ感じて、自然と胸を張っていたように思います。

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味吉兆の「バンザイ」

 そういえばご主人は、「ばんざい(まかない料理)」を「グリコ」って言っていました。道頓堀の川沿いに、ランニング姿の兄さんがバンザイをしているお菓子のグリコの大きな看板があるんです。

 ご主人にバンザイの作り方を教わったのは私だけかもしれません。これは、後年私が『きょうの料理』で披露して評判のよかった「たまねぎのけったん」です。たまねぎの芯を抜いて、横二つに切って、水の中でバラバラにたまねぎの輪っかを外して、椀を伏せた形にします。それを油で、しんなりするまで少し蹴って(炒めて)、切り落としの牛肉をたまねぎの上に広げてかぶせるようにして、塩を振り、蓋をします。

 ごく弱火で蒸し煮にして、肉の色がそろそろ変わるかどうかまで、牛肉にほぼ火が通るまで、じっと待つのです。八分通り肉に火が入れば、なべを煽って、肉の旨みの脂を全体に絡めます。肉に柔らかく火を通し、たまねぎの甘みを生かし、二つの食材を一つにまとめ際立てる調理法には、おいしくなる要素がいくつもあるのです。

 見事なバンザイ、いやグリコの出来上がりです。この料理、火を入れる間は何もすることがないので、いつも忙しい調理場にはうってつけ。手を離せるのがいいんですね。思えば海軍式の蒸し煮のやり方に似ていて、ご主人は陸軍にいたということでしたが、その時代には日常に役立つ調理法だったのでしょう。