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「革マル派の本当の恐ろしさを見抜けなかった」

 元教授は、こうも話した。

「革マル派が学内で台頭した当初、文学部の学生たちは間違いなく革マル派を支持していた。残念だが、それは事実だ。革マル派の本当の恐ろしさを、学生たちが見抜けなかったのだ。それは教授会も同じだった」

 革マル派が早稲田大学で台頭し、第一文学部自治会の主導権を握ったのは1962年頃だったとされる。それ以前、つまり、「60年安保」で社会が大きく揺れた時代までは、第一文学部の学生自治会は、「構造改革派」と呼ばれたグループが多数派を占めていた。暴力革命による権力奪取ではなく、構造的な改良の積み重ねによる社会主義実現を目指すグループで、当初は日本共産党内の分派的な存在だった。全盛期には、第一文学部だけでなく、政経学部、教育学部の各学生自治会、早稲田祭実行委員会などでも主導権を握っていたが、60年安保闘争が敗北に終わった後の衰退期に、その空白を埋めるように革マル派が急速に勢力を伸ばしていった。

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 革マル派が正式に発足するのは、革命的共産主義者同盟が中核派と革マル派に分裂した63年2月とされている。早稲田では、分裂前の時点で、すでに革マル派グループが一文自治会などを握っていたことになる。

11月1日から6日まで開催された「早稲田祭」

 新人戦(編集部注:筆者が参加していた体育会漕艇部の新人戦)が終わると、11月1日から6日まで、「早稲田祭」が本部キャンパスなどを会場にして催された。

 サークルの展示や模擬店などが軒を連ね、有名人の講演会などの企画も多彩で、来場者は学外からも含めて6日間で十数万人にも及ぶ。私も入学したときから楽しみに待ちかねていて、埼玉・戸田の合宿所から連日のように通った。

 会場ではキャンパスの各門にゲートが設けられ、入場券の役割を果たす早稲田祭の「公式パンフレット」を提示することになっていた。公式パンフレットは1冊200円(その後、400円に値上げ)で企業の広告なども多数掲載されていた。

 それらの収入の多くは早稲田祭実行委員会の活動資金になるのだが、実はその早稲田祭実行委員会の執行部を革マル派が掌握していた。各ゲートでパンフレットをチェックしている者の多くは、「Z」印の革マル派のヘルメットをかぶった学生たちだったが、そんなことを気にする入場者はほとんどいなかった。