「早大生 リンチで殺される」「革マル派が犯行発表」「早大教授ら 現場へ行ったが警察には届けず」……。1972年11月9日。早大生による早大生への凶行、“早稲田大学集団リンチ事件”を取材した『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』が、第53回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
著者は、ジャーナリストとして活躍し、当時、自身も早稲田大学の学生として政治セクトによる理不尽な「暴力支配」と闘った樋田毅氏だ。同書を抜粋した記事を再公開する。(全2回の1回目/後編を読む。初出:2021/11/05)
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暴力を黙認していた文学部当局
キャンパス内で革マル派による暴力が頻発する状況に、文学部当局はどう対応していたのか。
一言でいえば、見て見ぬふりをしていた。これだけ暴力沙汰を起こしているにもかかわらず、文学部当局は革マル派の自治会を公認していたのだ。
当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。
第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。
第一文学部の元教授は匿名を条件に、こう打ち明ける。
「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。だから、川口大三郎君の事件が起きて、我々は痛切に責任を感じた。革マル派の自治会の歴代委員長は、他のセクトの学生たちと比べると、約束したことは守った。田中敏夫君も、その前の委員長たちも、我々に対する時は言葉遣いも紳士的で、つまり、話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。しかし、事件後は、革マル派との癒着状態から脱することに奔走した。革マル派との縁を切ることは、文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。民青の学生たちについても、共産党員の教授たちと通じている面があるため、別の意味で警戒の対象となっていた」
大学当局は、キャンパスの「暴力支配」を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待していたのだろう。