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「地の果てでもどこでもついて行く」妻・純子さんが語るムツゴロウさんとの70年 結核、麻雀、無人島、借金、そして…

「地の果てでもどこでもついて行く」妻・純子さんが語るムツゴロウさんとの70年 結核、麻雀、無人島、借金、そして…

ムツゴロウさんと純子さん #1

note

「お前恋愛しとるだろ! 何かあったら退学だぞ」

――お互い目立っていたわけですね(笑)。メモにチェックして、そこからどうやって交際に発展したんでしょう。

純子 しばらくしてまた畑が教室に入ってきて、すっと私の机の上に手紙を置いていきました。もう中学生ですから、それが何の手紙かはすぐわかりました。緊張して中を見ると「好きだよ」と書いてありました。私も「好きです」と返事を返して、畑への気持ちが憧れからすっと恋愛感情に変わりました。

自慢のログキャビンハウスの前で ©文藝春秋 撮影・鈴木七絵

――当時は1940年代後半だと思いますが、中学生の男女交際はどんな雰囲気だったんでしょう?

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純子 やっぱり厳しかったですね。畑の家に担任の先生が来て「お前恋愛しとるだろ! すぐ別れなさい。何かあったら退学だぞ」と脅されたそうです。畑が堂々と手紙を置いていくもんですから同級生たちの間ですぐ噂になって、それが先生にもバレちゃったんですね。だから学校では気軽に話したり、一緒に帰ったりはほとんどできませんでした。

――ということはデートは学校の外で?

純子 皆に見つかってはいけないので、公園のベンチで話すこともできません。しょうがないので学校帰りに田んぼの中で待ち合わせして、歩き回ってどこか腰を下ろせる場所を探して、1~2時間くらい話したら「今日は楽しかったね。さようなら」と帰るのがデートでした。

――当時の大分はまだ戦争の爪痕も残っていたのですか?

ムツゴロウ 自然はきれいでしたが、戦後で物資も食料も何もありませんでしたね。僕の家は満州から帰ってきたばかりでお金もなく、子供の頃は親戚の農家の畑で田植えや麦刈りの畑仕事を手伝ったりしていました。他にもげた磨きの工場で深夜まで作業したり、早朝の三隈川で魚を獲って食べる生活でしたよ。

ムツゴロウさんはライオンに右手の中指を食べられてから、左手で鉛筆を支えて文字を書くようになった ©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵

帰りたくなくなって、博多で旅館に泊まった日の思い出

――そんな状況を乗り越えてお2人は大分県立日田高校へ進学されます。高校では少しは校則もゆるくなったんですか?

純子 高校も恋愛は禁止だったと思います。それでもお互い図書委員だったので、畑から「図書室の本棚の何段目の本に手紙を挟んだよ」と聞いて手紙を探して、返事を畑の机の引き出しに置いて帰ったりしていました。内容はもう覚えてませんけど、普通の恋文だったと思いますよ(笑)。

ムツゴロウ 高校の時は列車で博多まで3時間かけて移動してデートしたこともありましたね。列車では見つからないように別々に座って他人のフリをしてね。博多で映画館の帰りにお寿司屋さんへ行ったら、彼女は握り寿司が初めてで「大トロ」ばかり10個くらい頼むんです。イワシとかタコを注文してくれればいいのにって冷や冷やものでしたけど、バイトで貯めたお金で足りてほっとしたのを覚えてますよ。

©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵

――その頃は結婚とか将来のことも考えていたんですか?

純子 うーん、私はそこまで考えなかったですね。

ムツゴロウ 僕は中学の頃から結婚するんじゃないかなと思ってましたよ。他の女性には目がいかなかったですから。今でも覚えているのが、2人で博多で遊んで、でも一緒にいたいから帰りたくなくなっちゃって「ここは一泊300円だって、大丈夫かな」と2人で旅館を探しながら歩いたこと。結婚するまでセックスはしなかったから何するわけじゃないんだけど、部屋の真ん中に布団が2つ並べて敷いてあるのが色っぽくてね。

純子 お風呂が広くて、「綺麗だね」って言いながら一緒に浸かりましたよね。

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