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「地の果てでもどこでもついて行く」妻・純子さんが語るムツゴロウさんとの70年 結核、麻雀、無人島、借金、そして…

「地の果てでもどこでもついて行く」妻・純子さんが語るムツゴロウさんとの70年 結核、麻雀、無人島、借金、そして…

ムツゴロウさんと純子さん #1

note

初夜のために東京行きの列車を途中下車

――高校卒業後、ムツゴロウさんは東京大学理学部へ、純子さんは地元の運送会社に就職します。

純子 その頃は毎日のように手紙を書いていました。手紙で夏休みに帰ると教えてもらうと、私の勤め先は地元の駅の近くでしたので、仕事中もちらちら改札の方ばかり見てました。そうすると列車から畑が下りてくるのが見えるんですよ。でも畑の家は男女交際に厳しかったので、男友達に頼んで畑の家に電話をしてもらって、彼が出てから代わってもらっていました。ボーイフレンドは畑の他にもいましたからね(笑)。

©文藝春秋

――遠距離になって2年後の20歳の頃に、純子さんが結核を患ったと聞きました。

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純子 そうなんです。会社の健康診断で結核がわかって、地元の大学病院に半年以上入院しました。畑は東京から何度も面会に駆けつけてくれて、彼の実家は病院でしたので「僕は結核の患者の症状で治り具合がわかるから、自分が治してやる」って勇気づけてくれました。当時は結核で亡くなる人も多くて不治の病とも言われていたんですが、私は奇跡的に完治したんです。

――そしてムツゴロウさんが東大を卒業するのを待って、23歳で結婚。

純子 東京においでって言ってくれたときはもうなんだか鳥が飛び立つみたいな気分で、すぐに東京行きの列車の切符を手配しました。畑も一度大分に戻って来て、彼の実家で両家の会食をして、そのまま東京行きの列車に乗りました。

ムツゴロウ 列車には乗ったんですけど、山口で途中下車しようと僕が提案しました。ようやく結婚して、自分の倫理っていうか決まりを外して、東京へ向かう前に初夜を迎えたいなと思っちゃったんですね(笑)。それで山口で降りて湯田温泉へタクシーで向かったんですけど、タクシーなんて乗ったことがないから、カチカチ上がるメーターを凝視していました。一緒に行った大トロの寿司屋を思い出しました。それでもどうにか無事旅館に着いて念願の初夜を迎えて、あらためて東京へ向かったんですよ。

©️文藝春秋 撮影・鈴木七絵

「麻雀というのは儲かるものなんだと思っていました(笑)」

――東京ではどんな生活だったんですか?

純子 畑は家庭教師と塾のバイトのかけもちをしていました。私も働こうと思ったのですが「結核が再発するといけないから安静にして暮らさなきゃ」と言われてしばらくは仕事は控えていました。アパートは池袋の三畳一間で、布団を敷いたらいっぱいになるような狭い部屋。家賃は3000円で、今で言うと約1万7000円くらいですからまぁボロアパートです。鏡台もなくて、みかんの段ボール箱の上に小さな鏡を置いていました。

ムツゴロウ ご飯を食べる時もみかん箱だったよね。

純子 ちゃぶ台もなかったですからね。でもいくら貧乏でも、2人で一緒に生活できるだけで幸せでした。

――純子さんが上京して2年後に、25歳で長女が生まれています。

純子 畑が出版社に就職したのも同じ頃ですね。子供も生まれることだし、ちゃんと就職してくれたのはやっぱり嬉しかったです。毎月の給料袋を封も切らずに渡してくれて、お小遣いも渡していませんでした。でも畑は暇さえあれば麻雀をやっていて、時々お財布を見せてもらうと、給料の5倍くらいの札束が入っている。そんな調子だったので、麻雀というのは儲かるものなんだと思っていました(笑)。

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