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「最初は素直に受け取れませんでした。そのときはまだ、落合さんのことをわかっていなかったので。最初は『何でこんなこと言えるのかな』と驚きましたね。そのあたりの腹のくくり方は、やっぱり落合さん。認めてくれていたかどうかはわからないですが、使うと決めている選手に責任を持たせるという部分はすごくあるんじゃないかな。

 でも、最初はそんなことわからないので、『よくそんなこと言えるな』と当時は思いました。リーグも変わったし、チームを移ること自体が初めてだったので、僕自身が不安だったんです。周りの選手がどんなレベルかも知らないし、未知数なわけです。FA移籍で失敗する選手も少なくないじゃないですか。前のチームにいて出せる成績とは絶対に違うものになるので、プレッシャーもありました。それなのに『お前を競争させる気はないから』と。

 ですが、終わってみて考えると、『一人前の選手なんだから、ちゃんとそのぐらいの責任を取れよ』という意味合いだったんだなと。厳しさも含めての言葉だったと思います」

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和田一浩 ©文藝春秋

落合監督が和田に伝えた最初の課題

 和田は三冠王(編集部注:現役時代に3度の三冠王を獲得した落合監督のこと)に「教えてください」と素直に教えを請うた。しかし、逡巡した結果、移籍1年目についてはこれまでの打撃フォームで勝負させてほしい、と伝えている。和田は球界きってのナイスガイと言われ、試合に負けても、若手の記者が相手でも、礼儀正しく取材に答える人物。どんな相手にも自分の意思を穏やかに、かつ明確に伝えることができた。

「1年目については『今までのフォームで勝負させてください』とはっきり言っています。落合監督は(その後は打撃改造について)何も言わなかったですが、シーズンに入ってからは、タイミングの取り方についてよく見てもらっていました。『オレが見ているから、調子が悪くなったらいつでも戻してやる』と。

 結局、1年目のシーズンは打率3割ちょっと(3割2厘)、本塁打は16本しか打てなかった。年々、長打が落ちてきたことは感じていましたし、打率も3割前後をうろついて打点も長打も物足りない数字でした。それで、2009年のキャンプのときに落合さんに『変えます』と言ったんです。そうしたら『わかった。じゃあ(完成まで)3年を目指してくれ。お前のバッティングは直すのに3年かかる。ちょっとずつ直すぞ』と」

落合博満監督 ©文藝春秋

 西武時代は、外野手でレギュラーをつかんだ2002年から長打率は3年連続で6割台。2005年に5割7分3厘、そして2006、07年には4割台に落ちていた。

 移籍2年目、和田と落合監督の“打撃改造3年計画”が始まった。最初の課題は「大きい邪魔な動きをなくせ」だったという。