川崎は被害者とみなされていたが……
プロとしての苦境を弄ばれた格好となった川崎は被害者とみなされた。同情を寄せてくれる人もいた。もう二度とこんな事態を招いてはならない、と憤ってくれる人もいた。当然、本人もひどく傷ついているはずだと、誰もが思っていた。
だが一連の騒動の中、川崎は胸の奥でずっとこう願っていた。
どんな形だっていい。このままオールスターのマウンドに立てないものか。そうすれば、自分はそこで劇的に復活できるのではないか……。
不本意なものでも、屈辱的なものでも構わなかった。川崎はスポットライトを欲していた。とても口にはできなかったが、その衝動は抑えがたく存在していた。やれるか? という落合の問いに本能的に「いけます!」と答えたのは、おそらくそのためだ。
正月二日の道はどこまでも空いていた。両側にビルが並んだ中心街を抜け、川をひとつ越えると建物の背丈が低くなった。燻んだ色をした家々の向こうにナゴヤ球場のバックネットが見えてきた。
ふと、ハンドルを握る手に力がこもっていた。
よみがえったプライド
この右肩さえ動けば、俺は何だってできる……。今までもそうやって生きてきた。
開幕投手に指名された川崎の胸には、失いかけていたプライドがよみがえっていた。右手にはかつての感触がいまだはっきりと残っていた。
1980年代後半から1990年代にかけて、ヤクルト時代の川崎は「巨人キラー」と呼ばれていた。事実、川崎はジャイアンツ戦が好きだった。
冷静に考えれば、各球団の四番バッターをかき集めたような巨人打線と対戦すれば、勝ち星がつく確率は低くなる。身内にも巨人戦の登板を嫌がるピッチャーはたくさんいた。
ただ川崎はそもそも、そんな計算をするような男ではなかった。
大分の港町・佐伯で生まれた少年は、プロ野球といえば巨人戦の中継しか見たことがなかった。だから7歳で白球を握ったときからジャイアンツのファンだった。
津久見高校のエースとして甲子園に出た。ドラフト一位でプロに入った。巨人と同じく東京を本拠地にするヤクルトへの入団が決まると、「それなら俺は巨人を倒そう」と誓った。1年目、18歳でのプロ初勝利はジャイアンツから挙げた。
巨人戦になれば何台ものカメラが並び、スタンドがぎっしりと埋まる。大歓声を背に投げて勝てば、眩しいスポットライトを浴びることができる。川崎にとってはそのマウンドこそ、白球を投げる理由だった。