『お葬式』『マルサの女』など数々の映画作品を残した伊丹十三。しかし伊丹が当時の男性には珍しく、フェミニズム的視点を持っていたことはあまり語られていない。漫画家の瀧波ユカリが、伊丹の魅力やエッセイに残された先進的な発言を振り返る。

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 私、伊丹十三が大好きなんです。そう言うと映画のファンだと思われて、どの作品が好き?って聞かれたりするんですが、そういうことじゃないんです。伊丹十三が好きなんです。なぜかというと、伊丹十三はバキバキのフェミニストだからです。

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警戒しながらページをめくると…

 出会いは古本屋、私は20代前半でした。『再び女たちよ!』というタイトルの文庫本。「伊丹十三って、何年か前に亡くなった映画監督だよな。『マルサの女』の人だっけ? 映画は見たことないしどんな人か知らないけど、このタイトルだもの、きっとえらそうなことを書いているんだろうな!」とギンギンに警戒しながらページをめくると、そこにあったのは物腰柔らかでありながらどこか潔癖、それでいてユーモラスでサービス精神に溢れるエッセイ。当時の私が持った感想はふたつ。「何これ面白い!」と「読んでいていやな気持ちにならない!」

伊丹十三 ©文藝春秋

「いやな気持ちにならない」とはどういうことか。当時から私は、男性作家の書く女性向けエッセイって上から目線なところがあるなって思ってたんです。もっとあからさまに書くと「賢くなれない女という性を持って生まれてしまったあなたたちに男の僕が優しく教えてあげるね、ああ気持ちいい~」という本音が漏れちゃってるよって感じ。でも『再び女たちよ!』には、それがなかった。それでいて批判的精神に満ちていて、安っぽさや俗っぽさや薄っぺらさに対して非常に辛辣。辛口批判は女性にも向けられるし「女はこうあってほしい」といったことも語られます。だけど、いやじゃない。なぜなら彼の求めるものが「良妻賢母」ではないから。「わが思い出の猫猫」にはこうあります。「女は猫であってもらいたい。男の尺度で推し計れぬものであってもらいたい」。思い通りになる女など願い下げだ、というわけなのです。

著書『フランス料理を私と』では料理も披露 ©文藝春秋

 2021年の今、フェミニズム視点で読めば「ここはちょっとな……」って箇所はいくつかあります。しかしこれを書いていた頃の伊丹はまだ宮本信子と結婚したあたり。『ヨーロッパ退屈日記』(1965)、『女たちよ!』(68)、そして『再び女たちよ!』(72)において、海外での俳優生活で磨かれた最先端の時代感覚と批判的精神をいかんなく発揮してきた伊丹ですが、フェミニストとしての伊丹はここから。2児をもうけ主夫になり、料理や精神分析にのめり込み、新しい角度から世の中を眺めていくことになります。70年代半ばまでの著作は、いわば伊丹の「フェミニズム前夜」の作品。知的好奇心を刺激してやまない一流のエッセイのそこここに、フェミニストとしての萌芽が感じられるのです。