私の師匠である花登筺先生(故人)が、「力作は量産から生まれる」と言われたんです。でも、僕がそれまで先輩に聞いていたのは、「量産は駄作しか生まない」という逆説でした。つまりまったく違うんですね。でも花登先生の場合は、本当に量を書いて、それがことごとくヒットしたでしょう。だから花登先生の方が説得力がありましたから。実際に描いてみますと、やっぱり才能のない人は量を描けないんです。
また、「質」という意味でも77年最強説を唱えるファンは多い。
ドカベンシリーズ史上最高試合、との呼び声も高い高校2年春のセンバツ決勝、「明訓土佐丸」戦が描かれたのも同年だ(それゆえ、この試合が収録された『ドカベン』30・31巻こそ水島マンガの最高傑作、とする読者も多い。水島マンガの模写で腕を磨き、のちに『スラムダンク』を描いた漫画家・井上雄彦もそのひとり)。王がバットで天下を獲った年に、ペンで野球マンガ界の天下を獲っていたのだ。
さらに、この1977年は『ドカベン』と『野球狂の詩』が揃って実写の映画化。しかも、両作品で“役者・水島新司”として出演まで果たしていて、TVCMにも出演。テレビをつければ『ドカベン』と『野球狂の詩』のアニメも流れていた(ともにフジテレビ系)。
そんなドカベン人気に押されるように、『週刊少年チャンピオン』の人気も最盛期に。1977年に全国大学生協連が東大をはじめとする26大学、約5千人を対象に調査した「学生の生活実態」で、《よく買う、またはよく読む本》のナンバーワンは、秋田書店発行の『週刊少年チャンピオン』だった。
活躍した南海の選手には「5万円をプレゼント」
では、これだけの「量」と「質」を担保するアイデアの源泉はどこにあったのか?
水島新司自身の言葉でこういうくだりがある。
たとえば銀座の飲み屋で三軒ほど僕のツケで、南海の選手はタダという店を作ったり、南海が東京のゲームで勝った時に、「あぶさん賞」とか「鉄五郎賞」とか勝手に作りまして、活躍した選手に五万円を分けて渡したりしてました。ま、南海はそんなに勝たなかったから、ハハハ。(『週刊文春』1988年11月24日)
酒が飲めないのにもかかわらず、1977年からの2年間、毎月のように200万円の飲み代を支払っていたというから、いかにこの飲み屋が情報入手の場になっていたかがうかがえる。それが成り立ったのは、この時期、水島が漫画家生活のなかでもっとも稼いでいた時期だったから、というのは本人も認めている。
おそれ入るのは、これだけ創作活動に時間をかけながら、年間で何十試合も草野球に励んでいたこと。まさに「野球狂」とは水島新司本人のこと。
これから水島作品を読んでみたい、久しぶりに読みたい、という方には、ぜひ1977年前後の作品をお勧めしたい。描いて描いて描きまくったからこそ到達した「日本野球のもうひとつの真髄」がそこにあるのだから。