今も歴史に名を残す伝説の試合「アントニオ猪木VSモハメド・アリ戦」。1976年6月26日、日本武道館で行われた戦いは日本中で注目されたが、その内容はプロレスに好意的なスポーツ紙でさえ批難するようものだった。

 “世紀の大凡戦”とまで評された試合はどんなものだったのか? プロレスライターの斎藤文彦氏による新刊『猪木と馬場』より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

猪木VSアリ戦はなぜ酷評を集めたのか? ©文藝春秋

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アントニオ猪木VSモハメド・アリ

 異種格闘技戦あるいは総合格闘技というコンセプトがまだ存在しなかった時代だから、プロレスファンも、ボクシングファンも、この試合はあくまでも猪木はプロレスで、アリはボクシングで、それぞれの競技のルールに則って闘うものと考えていた。

 だから、たいていの少年ファン――たとえばぼくのような――は、猪木が“蝶のように舞いハチのように刺す”アリをつかまえて、バックドロップで脳天からキャンバスにたたき落とすようなシーンを想像した。

 水道橋の後楽園ホールで猪木、アリの両陣営による“有料公開スパーリング”がおこなわれたのは6月20日。アリはシャドー・ボクシングを3ラウンド、縄跳びを3ラウンドこなして軽く汗をかいたあと、“アリ軍団”のジミー・エリス、ロドニー・ボービックの2選手とスパーリングを5ラウンド。計11ラウンドの練習を披露した。

 猪木はヒンズースクワット、ブリッジなどの基礎練習のあと、藤原喜明、木戸修を相手にグラウンド・レスリング主体のスパーリング、木村聖(のちの木村健悟)を相手に、後年、“延髄斬り”の名称で猪木の代名詞となるジャンピング・ハイキックを初公開した。

 猪木がスパーリングで見せたいくつかのシーンは、アリ陣営を疑心暗鬼にさせ、同夜、アリのマネジャーのロナルド・ホームズ氏から猪木陣営に再度の“ルール修正”の申し入れがあった。

 アリ陣営と猪木陣営によるルール・ミーティングは、6月19日から同22日まで4日間、早朝から深夜まで延えんと続いた。猪木陣営の代表としてアリ陣営と直接交渉にあたったのは、新間寿・新日本プロレス営業本部長(当時)だった。

モハメド・アリ ©getty

 ルール・ミーティングにおけるアリ陣営の主張は、いうまでもなくプロレスラーがプロボクサーと試合をしたらどうなるかではなくて、プロボクサーがプロレスラーと試合をしたらどうなるか、という視点に立った議論だった。

 6月23日、試合の3日前にさらなる波乱が起きた。NETが『水曜スペシャル』の90分枠の生中継でオンエアした調印式、公開スパーリングを兼ねたディナーパーティーの席上、猪木が「ファイトマネー、興行収益のすべてを勝ったほうが取る“賞金マッチ”にしよう。アリが偉大なる男ならこれを受けてくれるはずだ」と提案。アリも持ち前のアドリブで(?)これを「OK」と即答し、その場で英文の契約書にサインをした。

 しかし、翌日(6月24日)になって、アリ陣営は「アリは、弁護士の同意なしに契約書に署名できる立場にはない。イスラム教はギャンブルを禁止しており、アリはそのような行為をしない。あれはパーティーの余興」とし、契約書の破棄か「さもなくば、本日、アリは帰国する」という“最後の手段”を突きつけてきた。