ジャイアント馬場、アントニオ猪木などプロレスラーとの交流も深い徳光和夫だが、実は若かりし頃はプロレスに苦手意識を持っていた時代も。
会社からプロレス実況を命じられ落ち込んでいた徳光氏を救った、先輩アナウンサーの言葉とは? プロレスライターの斎藤文彦氏による新刊『猪木と馬場』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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徳光和夫さんが語ってくれた“馬場さんとの思い出”
ぼくは、ジャイアント馬場とアントニオ猪木のプロレスラーとしての全盛期とその人柄をひじょうによく知る人物とお話をすることができた。フリー・アナウンサーでタレントの徳光和夫さんである。昭和と平成をまたいでスポーツ中継からバラエティーまでありとあらゆるテレビ番組の司会者やコメンテーターとして活躍してきた“テレビの顔”が、かつてはプロレス中継の実況アナだったという事実はいまとなってはあまり知られていない。
徳光さんがプロレス中継を担当したのは23歳から31歳まで、テレビ業界の番組改編カレンダーでいうと1964年(昭和39年)から1973年(昭和48年)までの8年間。日本プロレスの“金曜夜8時”から全日本プロレス初期の“土曜夜8時”のゴールデンタイムの番組で、馬場が日本プロレスのエースの座にあった時代――馬場&猪木の“BI砲”の時代――馬場の日本プロレス退団と全日本プロレス設立という激動の時代のどまんなかでマイクを握っていた。
徳光和夫が語った「ジャイアント馬場」との思い出
徳光さんが取材場所に指定してきたのは、永田町にあるザ・キャピトルホテル東急の3階ロビー横のレストラン「ORIGAMI(オリガミ)」だった。旧キャピトル東急ホテル内にあった「オリガミ」は、在りし日の馬場がたいへん長い時間を過ごした場所としてプロレスファンにはよく知られている。
馬場がオーナー社長だった時代の全日本プロレスの事務所は、かつては旧防衛庁の庁舎があり現在は東京ミッドタウンに姿を変えている一角から道路を渡って斜め前の六本木7丁目の雑居ビルのなかにあった。だが、馬場は六本木のオフィスよりもこの「オリガミ」を仕事の打ち合わせやマスコミの取材場所に使い、食事や憩いの場として愛用し、オフの日は午後のひとときから深夜近くなって自宅に帰るまでの半日を店の奥のゆったりしたブースに腰かけて過ごしていた。
「オリガミ」は洋食メニューのレストランだけれど、馬場が「きょうは天ぷらが食いたいなあ」とつぶやけば、「オリガミ」のすぐとなりにあった和食の店「源氏」から天ぷらのフルコースが運ばれてきた。
「天ぷら屋さんはカウンター席が6席あるだけの狭いスペースで、スツールもちいさいし、馬場さんは体が大きいので、自分がそこへ行くとお店に迷惑がかかるだろうと考えたわけです」