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 徳光さんは「馬場さんご自身は、もちろん、そんなことはいいませんよ」と前置きしてから、懐かしそうな顔でこう述懐した。

「馬場さんはそういう細かい気配りをされる方でした」

プロレス中継配属に「がっかりした」

 徳光さんにとって最初のプロレスの記憶は、中学1年生のときにテレビから聞こえてきた、日本テレビ第1期生で徳光さんにとっては大先輩にあたる江本三千年氏の震えるような声までさかのぼる。

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「六尺四寸五分、マイク・シャープ。五尺七寸五分、力道山。……国民は泣いております。大衆は泣いております。私の目にも涙……」という江本アナウンサーの名調子がいまも徳光さんの耳の奥のほうに残っている。

 国内最初の民放テレビ局として1953年(昭和28年)に開局した日本テレビは、翌1954年(昭和29年)2月、日本のプロレス史のプロローグである力道山&木村政彦対シャープ兄弟の歴史的な一戦を生中継し、プロレス界とは古くから密接な関係にあった。

 徳光さんが実況アナウンサーとしてプロレス中継に配属されたのは、日本テレビに入社して2年めの1964年(昭和39年)秋だった。プロ野球中継、とくに読売ジャイアンツの長嶋茂雄の躍動するプレーの実況がやりたくてアナウンサーを志したため、プロレス中継担当の業務命令には「正直、がっかりしました」という。

 それまでプロレス中継番組の実況アナウンサーは徳光さんの先輩の佐土一正氏と清水一郎氏のふたりで、佐土氏は力道山の現役時代のほとんどの試合の実況を担当し、清水氏は力道山時代の1957年(昭和32年)から全日本プロレス中継に移行後の1978年(昭和53年)まで約20年間にわたり“プロレス中継の声”として活躍した。

 徳光さんは当時の状況をこうふり返る。

「佐土さんはニュースを読まれたり、清水さんはスポーツ中継以外にドキュメンタリーのナレーションを担当したりで、ほかにも番組を持たれていた。プロレス中継の実況は、なり手がいなかったんでしょうね。私自身は当初、プロレスにはアレルギーというか嫌悪感を持っていました。プロ野球をやりたかったので、プロレスはやりたくなかった」

 “プロレスの父”力道山が生きていた昭和30年代――徳光さんの学生時代――の時点で世間一般にはすでにプロレスに対する“八百長論”が蔓延していた。当時はまだ新しいメディアだったテレビが全国放送していたプロスポーツは野球、大相撲、ボクシング、プロレスの4種目。視聴率ではジャイアンツ戦のナイター中継がナンバーワンで、プロレスはその次に人気があった。

「テレビの人気とプロレスの人気……。プロレスが存在していなかったら、テレビがあんなに早く一般の家庭に普及することはなかった。それはほんとうだと思います。でも、八百長疑惑もあって、そのことがずっと頭のなかに残っていたんですね」

 そんな徳光さんの心を揺さぶったのは、尊敬する先輩アナウンサーの清水氏から受けたレクチャーだった。