清水氏は23歳の新人アナウンサーだった徳光さんにこう語りかけた。
「なあ、徳光、そもそもスポーツはショーだろ。プロレスは最高のショーだぞ」
「プロレスというものは受け身のスポーツだ。いかに技を大きく見せるかだ。そのために選手たちは体を鍛えている。その鍛え方はハンパじゃない。それを八百長だどうだというのはおかしい」
徳光さんがプロレス中継を担当するようになった64年は、馬場が2回めのアメリカ長期ツアーから帰国し、日本プロレスのエースとなった年。馬場は1941年(昭和16年)3月生まれの徳光さんよりも3つ年上だったが、徳光さんは馬場に対して“同期”という感覚を抱いた。馬場がプロ野球選手として挫折してプロレスに転向し、徳光さんもまたプロ野球中継のアナウンサーになれずにプロレス中継に配属されたことも、若き日の徳光さんが馬場に親近感をおぼえたひとつの理由だったのかもしれない。
「清水さんの『2m9cm、134kg、世界の巨人、ジャイアント馬場がいま最上段のロープをひとまたぎして入場であります!』という実況を聞いて、カッコイイなあと思いましたね」
「レスラーの強さは、技を受ける強さなんだ、しっかりとした筋肉、真綿のような筋肉で全身を覆っているんだ。だんだんとそれが理解できるようになり、技を仕掛けられた選手の受け身、受ける選手の痛さをしゃべったほうが観ている人たちに伝わる。それを心がけました」
「アメリカ人レスラーのようなオーバーアクションはできないかもしれないけれど、日本人レスラーには受け身がある。馬場さんだってほんとうは攻撃型の選手なんでしょうけれど、試合では耐えて、耐えて、最後に逆転する。あっ、これがアメリカでおぼえてきたプロレスなんだ。ほんとうのアメリカン・プロレスを知っているのは馬場さんなんだ。そこから馬場さんというプロレスラー、馬場さんという人に興味を持ったわけです」
馬場さんからの教え「二の足を踏め」
プロレス中継を担当するようになると毎週のように地方都市に出張する生活が始まり、結果的に大好きだったプロ野球を観る時間が減った。シリーズ興行の巡業中には試合会場以外の場所でも馬場と接することが多くなり、プロレスについて語り合うこともあったし、日本の歴史や海外の文学や美術・芸術など、プロレスではないいろいろなことについても話をするようになった。
「プロレスもさることながら、人間的に魅力のある方でした。プロレスは人と接する仕事ですよね。馬場さんは例の調子でボソボソと語るわけです。親しき仲にも礼儀あり。どんなに親しくなっても、相手のなかに土足で上がり込むようなことはしてはいけないんだと。今日なら大丈夫かなと、踏み込めそうな日であったとしても、長い人間関係を築くためには『二の足を踏め』と教えられました。私はアナウンサーとしての道を馬場さんから教わったのです」