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88歳“きくち体操”の伝道師が語る「足の指を使えていないと全身が衰える」理由

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 運動を楽しむことができるようになったのは、国民学校6年生で終戦を迎えた翌年、高等女学校へ進んでからです。

 女学校は卓球の強豪校だったのですが、私は卓球というものを見たことも聞いたこともありませんでした。「どんなものだろう」と思って見学に行ったら、格好よくって、自分もやりたくなりました。

 ただ、私の手にはハンデがありました。2歳の時、囲炉裏に落とした布を拾おうとして両手を突っ込み、大やけどを負っていたのです。母が死に物狂いで仙台の病院まで運び、すべての指がくっついてひとかたまりになったのを、1本ずつ切り離してもらったそうです。

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©文藝春秋

 その後遺症が残って、成長しても手の感覚が乏しく、物をうまくつかむことができませんでした。ケロイドが目立って、ヘビの頭みたいな真っ黒な爪しか生えてこないし、学生時代は同級生から「気持ち悪い」と言われていたものです。

 卓球を始めたものの、最初はラケットをうまく握れませんでした。そこで、家の鴨居にピンポン玉をぶら下げて、ラケットを離さないように手に意識を集中して、何時間も振る練習を続けました。

 今思うと、きくち体操の原点は、この体験かもしれません。思うように動かない手を動くようにするには、自分の脳と指の1本1本まで感覚を繋げるように意識しながら使っていくしかない、と身をもって知ることができたからです。

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中学校の体育教師に

 おかげで卓球は結構強くなりましたし、体を動かすのが好きになって、日本女子体育短期大学(現・日本女子体育大学)へ進学しました。体育教師になるためです。

 秋田から汽車で12時間かけて上京しました。東京は冬でも雪が降らないと聞いてびっくりしたのを、懐かしく思い出します。

 短大卒業後、1度は日本麦酒(現・サッポロビール)に入社しました。卓球の実業団からお声がかかったからで、父が大層喜んで「教師になるより会社勤めをしなさい」ということで決まったのです。ただ、1年しないうちに「もうダメ~」と音を上げました。日中は経理の仕事をするのですが、じっと座っていないといけなくて、体育大学で学んだこととは正反対です。

 結局、1年後には東京都の採用試験を受けて、中学校の体育教師になりました。

 教師になってみると、自分のやけどの経験を生かせることがたくさんありました。どんな子がいても、それぞれの個性をまるごと受け入れることができましたから。

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