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自衛隊出身の芥川賞作家・砂川文次「ウクライナ義勇兵を考えた私」

2022/06/20
note

 陸上自衛隊におけるかつての生活は、当時は日常だったが異常だった。陸上自衛隊に所属はしていたけれども、対戦車ヘリコプターという航空兵器を運用する関係上、朝は非常に早かった。例えば、その日にフライトが入っていた場合、遅くとも七時の気象情報を取っておかなければならない。行先や離陸時刻によっては、より早い時間のものを取得することもある。飛行前ブリーフィングは八時半に始まるから、次は八時の気象現況をチェックして、その一時間の間にどれだけ気象に変化があったのかを、気象班に所属している予報官に確認する。で、七時の予報を確認するためには、当然のことではあるが、その前に登庁していなければならない。フライトは訓練だから、それ以外にも業務があり、業務量によってはさらに早く出勤することもある。そういうことで、私は自衛官時代、大体五時前後には出勤していた。要するに、自衛隊を辞める前も後も、四時前後に起きて何かをする、という生活リズムそれ自体はあまり変わっていないということだ。

 転職後における一番の違いは、「有事即応」という枷が外れたことだろう。休みの日だろうともなんだろうとも、呼集があれば出動しなければならない。幸いにして、自衛隊に在籍していた六年間、有事で登庁をしたのは、航空機墜落時の対応における一度だけだ。深夜一二時に電話が鳴り、二時には装備を整えて帯広から札幌へ、パジェロに乗車して出発していた。訓練の翌日だった。

 こういう勤務形態は、意識するにせよしないにせよ、心身に緊張を伴う。辞めた今でも、不意にその感覚を思い出すことがある。何もないときに感じることもあるが、きっかけがあるときもある。地震や隣国の弾道ミサイルの発射や地政学リスクが報道されるときなどがそうだ。

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 無力感を感じるか? 感じる。この感じは、でも初めてではない。

 三・一一が起きた時、私はまだ大学生だった。

 公立図書館と公民館とが合わさったような複合施設で、中高生や大学生が自習をするような場所もあって、私はそこで友人とともに公務員試験の勉強をしていた。発災直後、その友人と二人で避難誘導を手伝った。二階では高齢者が麻雀をやっていたが、震度の割に緊張感がなく、何人かの老人はしぶしぶ誘導に従っていたのを覚えている。手牌がよかったのかもしれない。

 とにかく、自分がしたことといえばそれくらいだ。歯がゆかった。

当事者ではないことに対する苛立ち

 三・一一では、予備自衛官にも初めて災害派遣が発出された。常備自衛官ではなく、退職した元自衛官や一定の訓練を受けた一般市民で構成される非常勤の自衛隊員のことで、この予備自衛官に具体的な行動命令が発出されるのは、自衛隊発足以来初の出来事ということもあり、この災害以後もそのことは度々見聞きするようになった。

 当時私は予備自衛官補という、予備自衛官になるための訓練段階にいたため、予備自衛官ではなかった。何もできなかった。二〇二二年の今この瞬間に感じる無力感は、まさにこの時のものと同質だ。そしていつしか無力感は苛立ちに変わる。当事者ではないことに対する苛立ちだ。関われないことへの苛立ちだ。戦争は、積極的に関わるべき事柄なのか? 分からない。

 ただ、公安職や公務というのは、望むと望まざるとにかかわらず、そうした事態に対処しなければならない義務がある。先に挙げた心身の緊張は、多分この義務に少なからず由来している。