志村といかりや、互いに対する印象は?
〈ドリフの前座やってるときから、体を使って動くという独特のキャラクターはありましたね。入ってからも、個人的にやるとこは、むしろあいつのほうが優れているところがあった。そういう意味では、ドリフで唯一あいつだけかな、才能があったのは(笑)。僕はいつも、うちはアンサンブルをなくしちゃったら何も残らないと言ってるんですけど、あいつはソロでいける奴ですね。〉(『週刊文春』1999年4月8日号)
一方、志村は「今のいかりやさんが面白いと思わない」と発言してから、いかりやについて言及することを避けてきたように見える。だが、2003年のインタビューでは次のように語った。「ドリフやいかりやさんの考え方とかは、僕は間違ってないと思ってますからね」(『文芸ポスト』2003年夏号)。
二人は師匠と弟子でありながら、同じグループのメンバーになった。その複雑な関係性が、愛憎入り交じった感情を生んだのだろう。それにくわえて、周りが詮索しすぎた面もある。私も含めて、ファンはみなドリフの関係が気になるのだ。いかりやは亡くなる2年前、志村との仲を次のように語った。私はこの言葉を信じたい。
〈私と志村じゃ、19も年が違いますからね。仕事以外では、なかなか分かりあうのは難しいかもしれません。でも、不仲というわけじゃない。〉(『person』2002年4月号)
2004年3月20日午後3時30分、いかりやは入院先の病院で永眠した。テレビ局は訃報を速報で伝えている。遺体が自宅に運ばれ、仕事先からメンバーが次々に駆けつけた。高木と仲本は、そのときの状況を次のように語る。
高木「かけつけたのは、僕が一番早かったんじゃないかな。仕事帰りに飛んで行きました。長さんを前にして『バカヤロー』って思わず叫んじゃったよ。これからどうすんだよ、ドリフをどうすんだよ、って。」(『文春オンライン』)
仲本「その日、僕は登別で芝居に出てました。そこへ連絡があってね。すぐに飛行機でお通夜にかけつけて、また仕事に戻らなきゃならなかったけど、あのときばかりは涙があふれてきてね。」(『文春オンライン』)
3月24日、葬儀と告別式が青山葬儀所で営まれた。花で埋め尽くされた祭壇には、キリンラガーのCMでウッドベースを弾くいかりやの写真が飾られている。出席者は約800人、一般の弔問客が1万人も参列するなか、午後1時に式がはじまり、加藤がメンバーを代表して弔辞を読んだ。