昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「私と志村じゃ、19も年が違いますからね」いかりや長介と志村けんの“愛憎入り交じった”師弟関係の真実

『ドリフターズとその時代』#2

2022/06/17

source : 文春新書

genre : エンタメ, 芸能, テレビ・ラジオ, 読書

 志村けんさんは18歳の頃、すでにドリフとして人気を博していたいかりや長介さんの付き人になるために、雪の降る玄関口でいかりやさんが帰るのを震えながら待ち続けたという。その5年後、志村さんのドリフ加入で二人はメンバーとして肩を並べることになる。

 ここでは、著書に『昭和芸人 七人の最期』などがある演劇研究者・笹山敬輔さんの『ドリフターズとその時代』から一部を抜粋。いかりやさんと志村さんの複雑な関係について紹介する。2003年5月、いかりやさんは体にガンが見つかり緊急入院していた――。(全2回の2回目/前編を読む

◆◆◆

師匠と弟子

 ドリフのメンバーは、詳しい病状を一切知らされていなかった。すでに病名はマスコミに公表されていたものの、いかりやは退院直後に『踊る大捜査線THEMOVIE2レインボーブリッジを封鎖せよ!』の舞台挨拶に出席し、完治をアピールしていた。だが、実情はガンがステージⅣの段階にあり、放射線治療によって進行を遅らせるだけで精一杯だった。

 いかりやの声帯は放射線によって損傷し、ナレーションを務めていた番組の収録で声が出ないことがあり、しばらくして降板している。ガン細胞は顎にも転移し、10月からはカテーテルを通して抗ガン剤投与が開始された。いかりやは薬の副作用のため、口からものを食べられなくなり、胃に穴をあけて栄養剤を直接注入する器具を取りつけている。

 12月初旬、息子の浩一は医師から余命宣告を受けた。「早ければ3ヶ月、もって半年」。父には言えなかった。

 そんななか、いかりやは生涯最後の仕事を行う。来年はドリフが40周年を迎え、それを記念して12月23日に『40年だよ‼ドリフ大爆笑』が放送される。その際、1983年から同じ映像を使っているオープニングとエンディングを一新することにしたのだ。5人揃っての仕事は『紅白』以来、2年ぶりである。節目とはいえ、撮り直すチャンスは過去にいくらでもあったはずで、やはりこのとき心に期するものがあったのだろう。

いかりや長介さん ©文藝春秋

 12月8日、メンバー全員がフジテレビの砧(きぬた)スタジオに集合した。いかりやは7月に退院したときの映像と比べても別人のように瘦せこけ、声がほとんど出ていない。収録前、いかりやはメンバーを前にして、「悪い。俺、声出ないから、おまえら頼むな」と声をかけた(『週刊ポスト』2004年4月9日号)。

 放送では、1983年版に続けて新しいオープニングが披露された。1983年版では不機嫌そうに見えた加藤が、今回はとびきり楽しそうだ。テーマ曲『ドリフの大爆笑テーマ』(原作詞・岡本一平/作曲・飯田信夫)の歌詞「兄さん姉さんパパにママじいちゃんばあちゃんお孫さん揃ったところで始めよう」は、まさにドリフの真髄である。

z