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「見逃し三振が平気でできればワンランク上がる」34歳のオリックス・T-岡田に“レジェンド”門田博光が授ける言葉

文春野球コラム ペナントレース2022

2022/06/21
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 6連勝で一気に貯金まで作ったと思ったら5連敗で交流戦を終え、ペナントレース再開の西武3連戦も●〇●。乗り切れない。ただ、去年も交流戦の最終カード広島戦で貯金を作り、そこからの浮上。今年もここからだ。

 明日からペナントレース再開という日の午後。街外れのビジネスホテルの中にある喫茶室でレジェンドがぼやいていた。

「やっぱりこの子の場合はそこなんですよ。あなたにもずっと言ってきたけど戦うための第一の条件は無事是名馬であること。そこをクリアしてどうかやけど、それがなかなか、な」

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 語りの主はオリックス在籍2年、OBでもある門田博光さん。「アツアツにしてや」とリクエストしたコーヒーを口に運びながら、2度、3度、「無事是名馬」を繰り返した。

 門田さんが「この子」と語っていたのはT-岡田(以下、岡田)。交流戦で今季初の1軍昇格、そのあたりの話を向けた時の反応が上の言葉だった。

 故障出遅れをひとボヤキすると「ところで彼は今いくつや?」と聞かれた。「34です」と返すと「今の時代に34言うたらバリバリやろ。わしらの頃なら動きが悪くなるのもようけおったけど今は体も若い。ただ、彼の場合はまだまだなんぼでもいけます、打てます、っていう気持ちの若さがどれだけあるか。そこがな」

T-岡田

かつて岡田に熱っぽく語ったレジェンド

 この10年余り、門田さんと定期的に会い話を聞いてきた。その話題の中に時折、岡田が登場した。そもそも、王貞治、野村克也に次ぐ通算567本塁打のレジェンドと岡田と僕の関係を少し説明させてもらうと……。

 30歳で脱サラし大阪でライター業を始めて間もなく、家から徒歩圏内にある履正社高校に当時「ナニワのゴジラ」と注目された岡田が登場。追いかけるようになった。その岡田がやがてオリックスへ入団。プロ1年目から雑誌野球小僧のサイトで「ナニワのゴジラ奮闘記」なるコラムを連載し月3~4回のペースで4年間書いた。

 ある時は整骨院で治療中に、ある時はファミレスで昼食中に、ある時は正月のバッティングセンターで初打ちの合間に……。とにかくついて回って話を聞いた。交通費で相殺されるような原稿料ではあったが実に楽しい時間だった。そして、今年が勝負、やってくれるはず、とコラムを終了し、送った5年目に1軍で4番に座り、33本塁打。キングに輝いた。

 岡田を追っていた3年目。ある雑誌の取材で初めて門田さんに話を聞いた。その少し前に突然解説から姿が消え、連絡を取るにも苦労したが、会ってみると、独特の感性、独自の言い回し、170センチで1キロのバットを扱い567本のアーチを積み上げた打撃理論。一瞬にして魅了され、以降、定期的に用事を作っては話を聞きに行くようになった。特に岡田が1軍へ定着する前の約2年は、岡田と門田さんの間を行き来するように、時に門田さんの言葉を岡田へ、時に岡田の状況を門田さんへ伝える、そんな贅沢な時間を過ごした。

 岡田がT-岡田となり、1軍の主力となって以降の2012年オフには、野球小僧から野球太郎として再出発した雑誌の誌面で門田×岡田の対談も行った。ホームラン王に輝いて以降、数字を落としていた岡田に、何か刺激になれば……、と編集部へ提案した企画だった。

 ほっともっとフィールド神戸で行った対談では7割方門田さんが語り、中では「君が今からでも無事是名馬で走ることができたら700発はいける」といった期待の言葉や、「今の時代、君がその気になったらなんぼでも稼げる、神戸でも買える」といった名言も飛び出した。終始熱っぽく語るレジェンドを前にひたすら苦笑いを浮かべ続けた岡田の顔が今も頭に残る。

 そんな経緯もあり、その後も門田さんなりに岡田を気にかけてきた。しかし、以降の岡田の“活躍”は門田さんにとっても、僕にとっても大いに不満で特に門田さんは細かな故障に見舞われがちな岡田に「無事是名馬やないと戦えんのや」と口を尖らせるのだった。

岡田はまだまだやれるはず――「改革をせんとアカンのや」

 岡田も今や家庭では2児の父となり、チーム最年長野手。後輩たちからは「Tさん」と呼ばれる。時は流れ、34歳、2022年シーズン。1軍初出場の5月29日中日戦をテレビで見ていると、かつて岡田の膝に座ったこともある小学生の我が娘が歓声を送る前で今季第1号。好スタートを切ったが、1日挟んでのDeNA戦は相手先発が今永で代打出場。翌日は5番先発も、3戦目は再び左腕濵口の先発で代打。4日の広島戦からは先発が続いたが、ここまで14試合の出場で38打数8安打、打率.211、6打点、本塁打1。渋い数字が並ぶ。

 去年はリーグ優勝のチームの中で主に5番を打ち、115試合で打率.241、63打点、17本塁打。これによくやったという調子で語られていると、こんなものと思ってるの?と大いに不満だった。

 まだまだ「その気」になれば、1つ掴むものがあれば、突き抜ける力を秘めていると信じている。何よりこの飛距離がある。復帰後はまだ球場でのフリーバッティングを観ていないが、昨年でも相変わらず、軽々と飛ばしていた。このまま扱いだけどんどんベテランとなり、試合に出たり出なかったりが当たり前になっていくようなことは勘弁だ。

 ここからどうしていったらいいですか――。ソロッと呟くと門田さんからは短くビシッと返って来た。

「プロは毎年同じじゃアカン、改革をせんとアカンのや」

「改革」は門田さんが好んで使う言葉でこれまで何度となく聞いてきた。特に力を込めるのが技術の改革はもちろん、頭の改革。ここでも話はそこへつながった。

「俺は30でアキレスをちぎった時、ベットの上で頭が改革されて第2の門田が生まれたんや」

 79年2月、高知キャンプ中に右足アキレス腱を断裂した。この時、すでに30歳。今より医療が未熟だった時代に絶望の淵に立たされる中、野球には直接関係のない書物を読み漁り、人の心理、自然の摂理を学びながら頭を改革。野球へつなげていったという。担当医とのこんなやりとりでも劇的に頭が改革されたと話してきた。

「ある時、医者が言うたんや。『これからは走るのがしんどくなるから全部ホームランを狙ったらいいんです』と。いつもなら気楽なこと言わんとってくれ、と終わるところが、ちょっと待てよ、となってな。確かに1打席あればホームランを1本打てるチャンスがあるわけで2打席なら2本。でも、普通の選手は1打席目にホームランが出たらあとはヒットでええと気持ちが逃げる。2打席連続で打っても3打席目にはもう十分と、やっぱり逃げる。でも、王さんは逃げんかったから4打席連続を打てたんやと。じゃあ、俺もその気持ちになったらええんちゃうんか?とベッドの上で素直に思えたんや」

オリックス時代の門田博光さん ©文藝春秋

 シンプルな気づきに思えるが、そこをひたすら思い込めるのが門田さんでもあった。固定観念を取っ払い、逃げずに本塁打を求め続けた結果、本格復帰の翌80年。32歳にして自身最多の41本塁打。初の40本超えを果たすと、ここから40歳までの9年で実に4度の40本台。門田が「王さんが出来たなら……」と思えたように、岡田が「門田さんが出来たなら……」と思ってくれないか。そう願いながら書いている。

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