今年もこの季節になった。勿論、少し早めの梅雨ではない、交流戦である。
そしてこの交流戦の時期になると、もう一つやってくる厄介なものがある。挑戦状だ。この数年、何故かこの時期になると文春野球で、西澤千央さんと筆者の対戦が組まれることになっているのである。しかもご丁寧にも毎回、お題付きだ。
いや、西澤さん、プロのフリーライターなんですから、学会の準備の合間に何とかネタを見つけて、苦し紛れの文章をひねくりだしているアマチュアの大学教員とじゃ、勝負にならないですよ。実際、僕、一回も勝ったことないじゃないですか。ひょっとしたら、組みやすい相手をわざと選んで楽してませんか。
そういう筆者の思いを他所に、今年も挑戦状は容赦なくやってきた。ふむふむ、今年のお題は「オリックスファン(ベイスターズファン)の負けた時の立ち直り方」でどうですか、か。
いや、よく考えたらどうしてプロがアマチュアに、一方的にお題を出してるんですか。というより、このお題は何ですか。いちおう、うちは去年のパ・リーグ優勝チームなのに、どうして一緒にされてるんですか。良いですよ、だったら受けて立とうじゃないですか。去年の優勝チームのファンとして、格の違いを見せてやろうじゃないですか(←簡単に挑発される奴)。
で、オリックスがもはや強くなった以上、「負けた時の立ち直り方」について、野球について書いてもしかたがない。だから、ここでは自分の人生を事例に考えてみることにしたい。何たって負け組大学教員だから、負けた記憶には事欠かない。経験豊富である。自信がある。
負けを認めるのが嫌で泣いていた少年時代
そうして時計の針を50年前に戻してみる。思い起こせば小学生の頃はよく泣いていた。弱くて虐められていたからか、といえば必ずしもそうではない。少なくともセピア色に美化された思い出の中では、それなりに勉強は出来たし、運動も全くダメではなかった筈なので、クラスでも弱い立場だった訳ではない。寧ろ、周囲に避けられて浮いていたので、誰も虐めてすらくれなかった。「孤高」という奴である。
じゃあ、何故、記憶の中の自分はそんなによく泣いていたのか。友達がいなくて誰も遊んでくれなくて、寂しかったのか。それもある気がするけど、そうじゃない。馬鹿みたいに負けず嫌いだったので、テストや草野球や喧嘩(時代は昭和である)や、様々な所で誰かに負けるといちいち悔しくて泣いていたのである。
いや、正直に言えばそんな結構なものですらない。自分の力不足で他人に負けたにも拘わらず、それを認めるのが嫌で、泣き散らしていたのだ。うわー、あの頃の俺、めっちゃ迷惑な子供やん。そりゃ女の子にもてなかったのも、当たり前や。ひくわー。
でもそんな筆者を、慰めてくれる優しい先生がいた。
「また負けたのね。悔しいんでしょ。先生、その気持ち、よくわかるわ。でも人間はね、負けてこそ大きくなるの。そして何度でも立ち上がって、挑戦するの。そうしたら、きっと最後に勝つのはあなたになるわ。だから頑張って。先生ワルだから、今日は木村君と一緒にお酒でも飲んじゃおうかしら」
突如として頭の中で流れ出す、80年代の名作アニメ「がんばれ元気」のテーマソング。先生、僕、がんばって必ずチャンピオンになります。必ず迎えに来ますから、それまで待っててくださいね。ホッホッホッ
そうして妄想と現実の透間で青春の夢をかけていった一人の少年が、その優しい先生は、実は放課後も自分勝手な理由で泣き続けて家に帰らない迷惑な子供を、どうにかなだめて教室から出ていかそうとしていただけだ、という事に気づくのは、いつまでも研究室でだべって出ていかない大学院生を指導するようになる、それから30年以上後の事である。
さて、そんな書いている本人以外は全くわからない、昭和の主観的にのみ美しい思い出を他所に、時は流れ、いつしか令和の世がやって来た。いいか、今回は好きな事を書かせてもらうから、そう思え。
ともあれ甞ての迷惑な少年は、立派に迷惑な大学教授になり、今では論文の査読が落ちる度に、優しい先生ではなく、優しい大学院生に慰められるようになった。「先生、また頑張って論文を書けばいいじゃないですか。いつかきっと認めてくれる人も現れますよ。僕たち帰りますから。このクレジットカード、財布に戻しておきますね」。
有難う、先生、嬉しくて情けなくて涙が出そうだよ。それよりお前たちの論文はどうなった。
普通の人間は負けを素直に認められないし成長もしない
とはいえ、そんな迷惑な大学教授にも、50年以上の人生で学んだ事がまったくなかった訳ではない。そう、それは普通の人間は、負けを素直に認めたりしないし、それを糧にして成長なんかしない、という厳しい現実である。
もしも嘘だと思うなら、京セラドームのライトスタンドに足を運んでみれば良い。そこには、劇場型の中継ぎ投手が四死球を連発した挙句に、逆転ホームランを打たれた現実を認められず、新型コロナ禍の下、声にも叫びにもならない奇妙な音をマスクの下から発している人たちがひしめいている。そして彼らがそこから何かを学んでいる様にはとても思われない。成長しているのは、ビールを飲み過ぎて膨らんだお腹だけだ。
それは結局こういう事だ。人間と言うのは、誰もが強靭なメンタルを持っている訳ではない。
だから敗北を前にして落ち込むのは当たり前だし、況してやその敗北が自分の責任であった場合には、精神的に後を引きずるのも当然だ。
そう、我々は堀口元気でもなければ平野佳寿でもないし、慰め励ましてくれる美人で優しい芦川先生はいない。どうでもいいけど、凄いよ平野さん。そのメンタルの10分の1でも僕に分けてくれませんか。そうしたら僕の人生、随分変わると思うのですが。それよりどうして38歳なのにまだ成績上がってるんですか。失敗以外の何か違うものを糧に、他人と違う種類の成長してませんか。
とはいえ、そんなことを言っていても問題は何も解決しない。それでは堀口元気でも、平野佳寿でもなく、慰めてくれる芦川先生もいない凡人の我々は、敗北に直面してどうすべきなのか。
わかっているのは厳しい現実に抗うのは無意味だし、それを無理矢理前向きな教訓へと変えるのは困難だ、という事だ。
例えば、もしも人間が困難な現実の中でも、いつも前向きに生きる事が出来るなら、夜の阪神電車の車中で、異なるユニフォームを着る異なる人々が、共にストレスを溜めて一触即発の雰囲気で乗り合う事なんてある筈がない。夜の甲子園駅、時々こえーよ。