ミッションは少子高齢化で存続の危機に直面した崖っぷちの村を再生すること――。「地方創生」のトップランナーはいかにして「ふるさとの夢をかたちに」という志を抱いたのか。

 いま最も注目されるコンサルティング会社「さとゆめ」の代表・嶋田俊平氏が日本に帰国した際のエピソードを、新刊『700人の村がひとつのホテルに』より一部抜粋。

「地方創生」の成功モデルとして全国から注目される「山梨県小菅村」の美しい自然風景、氏が手掛けた古民家ホテル「NIPPONIA 小菅 源流の村」の写真とあわせてお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

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7年ぶりに帰国した日本は、もう嶋田氏の知っている日本ではなかった ©志水隆/文藝春秋

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日本人であることをいつも誇らしく思った

 日本がバブル景気に沸いた1980年代後半から1990年代にかけて、私の父親は開発途上国で日本語教師をしていた。

 1979年に戦後の日本経済の高度成長の要因を分析した『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が刊行されてベストセラーになるなど、それまでも日本的経営は海外でも高く評価されていたが、この時期にもアジア圏の多くの若者が、日本に留学して技術を学びたい、高収入を得られる日本企業で働きたいと渡航してきていた。

 父はそんな若者たちが来日する前に、日本語だけではなく、日本の文化や企業の仕組み、マナーなども教えて、日本での生活にスムーズに溶け込めるよう手助けをする仕事をしていた。

 現地では、日本の文化をよりよく知ってもらうために、週末ごとにタイ人やインド人の生徒たちを自宅に招いて、母がつくる日本料理をふるまったり、父がギターをかき鳴らして日本の歌を一緒に合唱したり、時には庭でミニ運動会をしたり、というのが我が家の日常だった。

 そんな折、私は現地の若者たちから、「日本から多くのことを学んで、いつか祖国の役に立てる人間になりたい」という思いをよく聞かされてきた。

 彼らは日本の文化をよく勉強していて、四季を彩る自然の美しさや、歴史的な景勝地、旬を生かした食事など、憧れの国・日本の素晴らしさを私に熱く語りかけてくる。そこからは、彼らがいかに日本を好きで、多様な文化や国民性に敬意を払っているのかが伝わってくる。

「日本はこんなにもいい場所なのか」

 私は、幼いながらも、自分が日本人であることをいつも誇らしく思ったものだ。その頃の私は、間違いなく「ふるさと=素晴らしい日本」だと信じていた。経済的に潤い、自然にも恵まれ、人々の心も豊かな、理想の場所としての「ふるさと」のイメージが、タイやインドで出会った若者たちの言葉を通して自然と刷り込まれていたのだ。