事件を風化させないために
事件後から通い続ける東が丘のアパートからは、1ヶ月もするとマスコミの姿は消えていた。が、誰かが思いを巡らせているのだろう、手向けられた花や菓子が途絶えることはなかった。
「あのアパートを見ると事件を思い出さざるを得ないんです。だからあんまりあそこを通らないようにしちゃう。つらいですから」
事件から目を背けたいは、忘れたいとは、違う。事件を風化させないためにも花や菓子を供えて手を合わせているのだと近隣住民は言う。
虐待が起きたアパートから一室、また一室と空き部屋が目立ちはじめた頃、僕は行きつけの飲み屋を見つけた。現場からほど近いダイニングバーである。
「やっぱり街にとってはあのアパートは解体したほうがいいんですかね?」
ギネスビールを口にしながらマスターに尋ねると、真摯な答えが返ってきた。
「それはそうだけど、街の方々も悔しいんですよ。なぜ気づけなかったのか、何かできなかったのか。今も思い続けています……」
「なんでこんな閑静な住宅街で事件は起きちゃったんですかね?」
「それはわからないけど、僕が接した限り、あんな事件を起こすような人間だとは思わなかった」
2018年1月、バーにやってきた雄大
そう、偶然にも事件前に雄大は、この店に来ていた。マスターの記憶によれば、最初に顔を出したのは2018年1月。雄大は緊張した面持ちで暖簾をくぐった。ハイボールを一つ。アテはミックスナッツ。マスターは間合いを読みながら声をかけた。
「初めてですよね。お近くにお住まいですか?」
「引っ越したのは最近です。妻と子供は1週間後に来ます」
マスターは雄大を礼儀正しい男として認識した。新生活の不安はあるのかと聞くと、「今まで食品会社で働いていたんですが、新しい仕事を始めようと思っています」と希望を覗かせたという。
「芸能界のマネージャーをやりたいと話をされていたので、何か当てがあるんですか? って聞いたら、特にないですと。だから、新たに東京に出てこられて、お子さんもいらっしゃるなかで仕事を始めるなんて大丈夫かなって、ちょっと心配になりました。ただ、この辺りは過ごしやすいというか温かい地域なので、頑張ってくださいねと声をかけました」
ここが人に優しい地域であることは、僕も感じていた。昔から地元に住む人間と新しく越してきた住人の間に溝ができることは珍しくないが、東が丘は違う。地域行事一つとっても垣根なく多くの人が参加する。この店でも偶然居合わせた者同士がわだかまりなく一緒に飲む姿を、僕は何度も目にしていた。