1ページ目から読む
3/3ページ目
昼前、「踊り子号」で修善寺駅に着いた私はバスで温泉街に向かった。吉永さんとお会いしたときは、翌日、すぐに東京へ帰ってしまったため、どこにも寄らなかった。
私は、町の名前の由来となった修禅寺を参拝し、「竹林の小径」などというところを歩きながら、しかし、ぼんやりと考えていた。
観光客は少しずつ増えているらしいが、やはりまだ普通の状態には戻っていない。
この新しい型のウイルスの流行によって、多くの人が普通の日々を奪われて久しい。
だが、私はできるだけ普通でありたいと思い、努めてそのように暮らしてきた。このウイルスとの長くなるだろう戦いには、可能な限り普通に暮らすことが必要ではないかという気がしていたからだ。
細心の注意を払いつつ、全力で普通でありつづける。細心も、全力も、普通ということとは相反する言葉であるかもしれない。
しかし、スターという特殊な立場にあった吉永さんが、普通であるために細心にして全力を尽くさなくてはならなかったように、ウイルスの流行というこの特別な状況においては、やはり「細心」と「全力」が「普通」であるために必須のものであるに違いないのだ。日常という名の、普通の生活が訪れるまでは。