好きだと感じる部分は人によって違う
サイコロのように、1つの同じものを見ていても、立っている場所によって見える景色は変わる。同じ「将棋が好き」でも、好きだと感じる部分は人によって違うのだ。
私は読書が好きだけれど、特に小説においては、自分が好きな本を人に薦めたり、薦められたりするのはあまり得意ではない。
人と同じものを共有して楽しむよりも、それぞれが別々の好きな本を黙々と読み続ける方が良い。面白いと感じた部分は、人に伝えるよりも自分の中の、心の箱のようなところにしまっておく方が好きだ。当然ながら(?)読書感想文はもれなく苦手だった。
自分の楽しみ方とは別に、好きな本や作者について語り合うのが好きな人たちがいるのも知っている。
楽しそうに喋っているところを、机を1つ分くらい間を開けた場所に座って、自分が好きな本を読んでいたい。会話の中に入ろうとするよりも、少し離れたところで他の人たちが発する、「本が好き」だという空気を感じられる、つかず離れずの距離にいるのが、きっと私にはちょうどいい。
真ん中に挟まれている「好きなように」
ちなみに夫も読書は好きだが、夫婦で文章の好みは違う。
好きな作者も違うため、本棚もハッキリと目に見えない境界線が引かれている。私は私、あなたはあなただ。
「この本面白いから読んでみて」と、相手に薦めることはない(夫が薦めて来るのはほとんどの場合が詰将棋)が、たまに自発的に相手の本をつまみ食いすることはある。
私の好きな本を夫が読んだ形跡を発見したら、「これ読んだ?」とだけ聞いてニヤニヤする。
感想は聞かずに、ただニヤニヤするというのが、私たちの距離感である。
「好きな将棋を、好きなように、好きなだけ」
今年のフレーズは、真ん中に挟まれている「好きなように」が、とてもいい。
将棋が好きな人たちが、自分が好きなように将棋を楽しんでくれるのが嬉しいと、将棋を指して生きている1人の人間として思う。
「これをしなきゃ」よりも「これがしたい」を選んでほしい。
同じ趣味でも、楽しみ方はそれぞれ違って良い。誰に言われるでもなく、誰に理解されなくとも、自分が好きなように選んで良いのだ。
この夏休みは娘たちと、何をして過ごそうか。
とりあえず今のところ毎日姉妹喧嘩が絶えないけれど、この長くて短い夏休みを、存分に楽しんでもらいたい。好きなことを、好きなように、好きなだけ。
なるべく希望を叶えられるように善処するよ。