女流棋士として27年のキャリアを持つ中倉宏美女流二段は、以前と今とでは女流棋士をとりまく環境が大きく変わったと言う。そんな女流棋士事情や、LPSAとして力を入れている女性ファンが楽しく将棋を指せるよう工夫しながらの大会運営について質問してみた。
また、LPSA代表理事としての中倉宏美女流二段の大きな功績は、日本将棋連盟との和解だろう。和解のためにやってきたこととは――。
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姉と一緒だから将棋を続けられた
――少し前ですが、2018年に蛸島先生が引退されたときの「女流棋士第一号蛸島彰子さんの歩みを語り感謝する会」には、日本将棋連盟からも棋士そして20人以上の女流棋士が参加されましたね。あれを見て、ずいぶん和解が進んだのだなと思いました。
中倉 蛸島先生の人徳でたくさんの方が集まってくださいました。当時将棋連盟の女流棋士会会長の久美さん(山田女流四段)とお話ししたところ、「(連盟の女流棋士の)みんなを連れて行きますから」と言ってくれました。キャリアの長い女流棋士は、みな蛸島さんのお世話になったことがあるわけで。おかげで華やかな会になりました。
――今年、蛸島女流六段の本「駒我心 初代女流名人 蛸島彰子の歩み」をクラウドファンディングにより発行しました。私もお手伝いしたのですが、蛸島先生の歩みはもちろん、1974年に女流棋士制度(当時は女流棋士という名称ではなかった)ができてからの歴史がよく分かる本になったと思います。
中倉 蛸島さんの本だけど、きちんとした形で女流棋士の歴史を残したい、それは将来のためになると考えていて、その通りの本にできて良かったと思います。
私が将棋を始めたときも女の子は珍しくて姉と一緒だから続けられたのですが、蛸島さんはたった1人。どれほど過酷だったかと思います。将棋は男性が指すものという考え方が当たり前だった時代に、女性が将棋を指す道を切り開いてくれた蛸島さんの偉大さが分かりましたね。
「そんな将棋でお金はとれない」としょっちゅう言われていた
――女流プロ棋戦が行われるようになったのは1974年ですから、まだ50年経ってないのですよね。初期の頃は対局料が「化粧代」という名称だったとか、タイトルを獲得しても自立できるような収入ではなかったとか、収入面のエピソードもありましたね。
中倉 私が女流棋士になった1995年でもそういう部分はありました。16歳でしたから、最初は高校生のアルバイト代に比べれば高額な収入に満足していました。でも、同級生が就職すると抜かれてしまうわけです。女流棋士の先輩たちから「対局料だけでは食べていけない」みたいな話を聞くことも。将棋とは関係のないアルバイトをしている人もいました。「女は結婚すればいいから収入が少なくて良い」と言われることもありました。