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「なんもないですけど……」

 L字型のソファから立ち上がると、清原は照れ臭そうに言った。

 外は晴れていたが、部屋には灯りがついていた。よく見ると、北と西にある2つの窓はどちらもカーテンが半分しか開かれていなかった。

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「去年の秋ぐらいからですかね、ようやく半分開けられるようになったんです。それまではいつも閉め切っていました」

 清原はそう言うと、窓の外に目をやった。

 私はその時点であることに気づいた。この日の清原はホテルで会ったときのように俯いていないのだ。身辺に変化があったのか、あるいはつとめて顔を上げようとしているのか、すぐには判断がつかなかった。

清原の心変わり

 私は駅前のコーヒーショップで買ってきたアイスコーヒーをソファの前のガラステーブルに置いた。清原の前に2つ、私の前に1つ。清原は「どうも」と言ってストローを挿した。それが証言者と記録者にとって再開の合図だった。

 清原は一つ目のアイスコーヒーを3分の1ほどひと息に飲み干すと、西側の窓の下を指した。

「あそこにほら、亀がいるでしょう。最近、飼い始めたんです」

 そこには小さな水槽があった。浅く敷かれた砂利が浸かる程度に水が張られていた。都心の高層マンションにつくられた人工の水辺には、掌にすっぽりと入るくらいの亀が数匹這っていた。

「日本古来の石亀らしいです。令和になった日に生まれたから縁起がいいって、知り合いがくれたんです」

 その亀たちの甲羅は何年も土に眠っていた石器のような色をしていた。

「岸和田の実家のすぐ前にため池があって、小さいころはそこでよくザリガニを釣っていました。ぼくが行くといつも亀が日向ぼっこしてるんですけど、少しでも人の気配がすると、あっという間に池の中に逃げていく。ぽちゃん、ぽちゃんって」

 清原は亀たちを眺めながら昔のことを話し始めた。水槽の水は透き通っていて、よく手入れされていることが分かった。

バットを握る清原の拳 ©杉山拓也/文藝春秋

「あのころは、なんて臆病な奴らなんやって呆れていたんですけど、いまはそれでいいと思うんです。デッドボールをぶつけられても逃げないのがぼくの誇りでしたけど、逃げてよかったんだって……そう思えてくるんです」