「葛西さんは、入院してから家族以外の面会は謝絶していたのに、唯一、安倍さんのお見舞いだけは3回も受けたのです。葛西さんと安倍さんの繋がりというと『四季の会』が有名ですが、葛西さんはそれ以前から『高瀬会』という会合にも関わっていた。もとは葛西さんと、東大で同級生だった与謝野馨さんの2人が作った会です。霞が関の官僚や民間企業の有望株を集め、天王洲の高架下にあった高瀬というお店で開催していた。それで高瀬会。いつも10人以上は来ていたと思います。元郵政大臣の野田聖子さんや元文科大臣の遠山敦子さんなども参加していた。一方で安倍さんにはその後、葛西さんが中心となってつくった『四季の会』がバックボーンとなった面があったと思います」
「葛西さんは安倍さんを政治家としてだけでなく1人の人間として支えていたように思います。第一次政権を志半ばで退陣し、安倍さんが最も辛かったときも、葛西さんは一生懸命励まして再起を促していました。だから安倍さんも非常に恩義を感じていたはずです」
亡くなる2日前、葛西氏と杉田氏の“最後の会話”
5年ほど前から間質性肺炎を患った葛西氏は覚悟を固め、身辺整理を進めていたという。亡くなる2日前、杉田氏は最後の会話も交わしている。
「『無駄な延命治療はしない』という明確なお考えをお持ちで、友人だった医師の死に強く影響を受けていたようです。葛西さんによれば、消化器外科が専門だったその友人は、自分自身に末期の大腸ガンが見つかった時、自分の死期を明確に悟った。そこで元気なうちに社会的な整理を済ませ、入院してからは家族以外には誰とも会わず自然に任せて眠るように亡くなったということでした。葛西さんの言葉を借りれば『生を制御』して、自ら人生の幕を閉じたと。ずっとその医師のことが念頭にあったようです」
「亡くなる少し前に、私は葛西さんと電話でお話ししました。元気な時に比べると声も弱々しくなり、言葉を継ぐのが苦しくなっていた。だから、いつものように国の情勢についてとか、そんな難しい話はしません。私の方から『長くならないようにしましょう』『お声が聞けただけで充分ですから』と伝えました」
「文藝春秋」9月号(8月10日発売)掲載の「わが友・葛西敬之氏を偲ぶ」では、リニア開発に力を注ぎ、日米関係を重視した葛西氏の経営者としての功績や、2人で謡曲教室に通い、カラオケで熱唱するなどプライべートでの交流についても明かしている。