今年の11月場所中に横綱・日馬富士の暴行疑惑が表面化し、場所後、その責任をとる形で引退したことは記憶に新しい。過去にも、横綱が不祥事により現役を退いたケースはいくつかある。30年前のきょう、1987(昭和62)年12月27日には、第60代横綱の双羽黒光司(当時24歳)が師匠の立浪親方(当時=元関脇・羽黒山)と衝突して“失踪”、4日後の31日には親方が相撲協会に双羽黒の廃業届を提出して受理された。
衝突は27日、立浪親方が自室に双羽黒を呼び、生活面などで注意したことから起こったという。失踪の第1報を伝えた新聞紙面には、注意を受けた横綱は「突然、暴れ出し、居合わせて止めに入った後援会長や親方夫人を払いのけた。この際、(中略)突き飛ばされて腰を強打した親方夫人は、病院で精密検査を受けた」とある(『読売新聞』1987年12月30日付)。双羽黒に関しては、その2ヵ月前の地方巡業中に付け人6名が、「双羽黒の態度に不満がある」として一時“集団脱走”するというできごともあった。そのため、双羽黒と付け人たちとの確執、その指導方法をめぐる親方との対立もマスコミでは取り沙汰された。
廃業後、本名の北尾光司(横綱昇進前の四股名でもある)に戻った元横綱は、作家の野坂昭如との対談(『文藝春秋』1988年3月号掲載)で事件について語った。そこで彼は、後援会長や親方夫人に暴力を振るったことをはっきりと否定。実際には、親方があまりに興奮状態で話にならないので、冷却期間を置こうとして立ち上がっただけだという。夫人らはそれを止めようとして「バランスを崩して手をついたくらいのこと」だったが、「それでも怪我をされたのなら、申し訳ないと思います」と謝罪した。“失踪”というのも、実際には、部屋付きの親方に断ってマンションに入り、その後も部屋には何度か電話したものの、立浪親方には出てもらえなかったようだ。
付け人の“脱走”は、彼らが自分たちの仕事を放棄することが重なったため、北尾が注意したのが原因だという。むしろ彼はそれまでに「若い衆を締めるだけでは駄目だから、自腹を切って野球大会をやったり、料理屋で飲み食いさせたり」「横綱として少しでも部屋を守(も)り立ててゆこうという気持ちから」さまざまな気配りをしていたと、先の対談で釈明している。しかし付け人たちは本来、横綱ではなく部屋の親方の弟子である。親方との衝突の原因も、どうやらそこにあったらしい。
北尾は後年、付け人たちに「少しでも楽をさせてあげたいという気持ち」があったと認め、そのことがかえって彼らの「我慢して我慢して強くなる、という反発の力」を崩してしまったと反省の弁を述べている(武田葉月『横綱』講談社)。横綱廃業後、北尾はプロレスラー、格闘家などに転身、2003(平成15)年には、親方が元小結の旭豊へと代替わりした立浪部屋の部屋付きアドバイザーに就任した。