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その後、齊藤さん一家は明美さんの故郷・小矢部市に戻り、勇旗さんは石動小学校へ入学。寛明さんは高岡市にある実家の豆腐店で働き始めた。しばらくして、工場にいる勇旗さんの姿が寛明さんの目にとまった。

齊藤寛明さん:
工場の中で、いくつもできる仕事が出てきた。例えば、すし揚げのパック詰めを1日、多いときには500パックほど、泣きながらしていた。「やめてもいいよ」と言ってもやっている。そのときに、この子が働ける工場を小矢部でつくりたいという夢ができた

 

31年前、その思いを形にしたのが今の豆腐店だ。我が子のために立ち上げた豆腐店で寛明さんが力を入れた一つが、障がい者雇用だった。

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計算ができる従業員の堀田さんは、1年4カ月かけて運転免許を取得。今では配達のプロになった。

1年4カ月かけて運転免許を取得した堀田さん 配達のプロに

店の看板商品、がんもの生地作りは機械化していたが、掃除などの手間がかかるため手動でつくってもらったり…。豆腐作りなどの工程の中から仕事を切り出し、障がいを抱えていてもできる環境や機会をつくり、今は従業員15人のうち、勇旗さんを含め7人の障がい者が働いている。

 

息子の成長を実感「苦労の恩返しをしてくれた」

豆腐店を始めて30年余り。知的開発は無理と言われた勇旗さんだが、今では全国の取引先や関係者に向けた封筒の宛名書きまでできるようになった。勇旗さんの姿に、齊藤さん夫婦は「生きる勇気」をもらい続けているという。

齊藤寛明さん:
「諦めずにコツコツ毎日やっていくと、いつかちゃんと成果が出てくる」ということを、あの子(勇旗さん)から学んだ。親が諦めそうになっても、あの子が頑張っている様子が伝わってくる。あの子が諦めていないのに親が諦めるわけにはいかんですよ

勇旗さんの姿からは「生きる勇気」をもらっているという

齊藤明美さん:
今も奇声を発しながら仕事して変な子ですけど、いっぱいいっぱいあの子の親として、いろんな苦労はあったんですけど、もうあの子はとっくに苦労の恩返しはしてくれたと思っている

勇旗さんの母・明美さん

仕事中の勇旗さんを取材していると、視線の先には常に父・寛明さんの姿があった。たとえ障がいを抱えていても、話せなくても、父親の背中を今も必死に追いかけ続けていた。

勇旗さんの見つめる先には父・寛明さんの姿

健常者や障がい者が分け隔てなく暮らす共生社会を目指す時代。そのために必要なこととは…。

齊藤寛明さん:
僕がよく言っているのは、隠すなといっている。世の中を優しくするためには、ああいう子たちがいるということを知ってもらわないといけない

 

齊藤寛明さん:
個性だということを知ってもらいたいから。一人ひとり良いところ持っているんだから、それを見つけてやって伸ばしていけば、随分変わるんじゃないかな。それを見ている人たちが変わってくれる

(富山テレビ)