血の気が引いた感覚とは少し違いました。いつもは絵空事として思い浮かぶ様な場面が必然の事として目の前に叩きつけられると、悔しい感情が単純には湧かないものだと知りました。横浜スタジアムの記者席では「ああ……」という声が控え目に、それでも至る所から漏れています。
8月28日、ベイスターズがスワローズを追って可能性の糸を手繰る戦いに臨むも連敗し、迎えた3戦目。7回にスワローズ村上宗隆選手がエスコバー投手の8球目をとらえ右中間スタンドに運んだ49号ソロ、このカードだけで4本目のホームランが決勝点でした。
この試合は何としても勝つというエネルギーに溢れ、踏みとどまり、追いつき、継投も勝利への最善策を選んだ結果の敗戦。木塚敦志投手コーチは「全力で戦って知ることができるのが今の立ち位置。悔しさを忘れず、チーム一丸で何をするべきか探し出す。村上選手は影響力の大きい選手だが負け続けるわけにはいかない」と振り返りました。
翌年は日本一しかないと思わせるエネルギーを蓄えていた1997年
最近ベイスターズファンの方達に「あの、1997年と似てきましたよね」とよく問いかけられます。どうでしょう?
1997年は日本一になった前年で、8月に20勝6敗と月間勝利数で球団記録を塗り替え、首位スワローズを追った流れは確かに似ています。一時ベイスターズは2.5ゲーム差に詰め寄りながら、9月の直接対決で1勝4敗。あの時スワローズは勝負所で加速したのです。
多くのファンが今も語り継ぐ9月2日、石井一久投手(現イーグルス監督)が横浜スタジアムで達成したノーヒットノーランはとてつもないインパクトでした。この試合を機にベイスターズは失速したと言われていますが、実際には同年9月のベイスターズは9勝11敗。8月の勢いには及ばずとも、失速と言い切るには抵抗があります。
半月後の9月17日、当時tvkで神宮球場からもお送りしていたスワローズ対ベイスターズ、私が実況を担当した試合では戸叶尚投手が5回までノーヒットピッチング。しかし6回またもやベイスターズにとっての壁となる石井一久投手にホームランを打たれ惜敗した試合もありました……それでも翌日、7回に駒田徳広選手の逆転2ランで、優勝したスワローズに対し年間勝ち越し(14勝13敗)を決めています。
1997年、私にとって年齢が近い選手が多かったことも手伝い「やる時は一丸になる」大人のチームへと変わる過程を感じました。一つ一つの試合が輝きを放ち、翌年は日本一しかないと思わせるエネルギーを蓄えていたのです。
「1997年に匹敵する勢い」だった2001年
実は、記憶を辿るともう一つ「1997年に匹敵する勢い」と当時、沢山の人達と言葉を交わしたシーズンがありました。
2001年、あまり振り返られない年ですが森祇晶監督が新たにベイスターズの指揮官となった1年目です。
ローズ選手、駒田徳広選手が退団。進藤達哉選手に加えシーズン途中には波留敏夫選手がトレードされチームの空気が一変。思えばキャンプ取材の頃からどことなく緊張感が漂っていました。緻密な野球を目指す中で、シーズンのスタートはどうも上手く嚙み合いません。5月までは17勝29敗と12の負け越しで最下位。それでもチーム力はあったのです。
6月に3つ勝ち越すと、7月は12勝4敗1分けと、オールスター期間によるペナントレース休止がもったいない成績。その後も勝率5割を超える戦いを続けます。8月11日のカープ戦は4回表まで8対2とリードされた試合で谷繁元信選手が躍動。4回裏に3ラン、9回には佐々岡真司投手(現カープ監督)から逆転サヨナラ2ランを放ち11対10で勝利と、いかにもベイスターズらしい劇的な試合もありました。
ピッチャーも頑張り、小宮山悟投手(現早稲田大学野球部監督)が12勝の他、現在ベイスターズ首脳陣では三浦大輔監督が11勝、斎藤隆チーフ投手コーチが7勝27セーブ、2年目だった木塚敦志投手コーチが69試合にリリーフ登板し9勝3セーブ。最終的には69勝67敗4分けで3位となり5年連続のAクラス入りを勝ち取りました。
この時は「1997年の様に、翌年優勝を狙える空気が出来上がったのでは」と沢山のファンやチームスタッフの方々と語り合いました。でも、甘くはなかったですね。小宮山投手はメッツへ、谷繁選手はドラゴンズへFA移籍。体を痛める選手も多く、チーム一丸を実感する試合が減った2002年は最下位に終わってしまいました。