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経営の神様・松下幸之助が綴った 世界の「ナショナル」への苦難の道(前編)

「私が唯一苦労したのは、戦後数年間だった」その全貌とは

2018/07/19

source : 文藝春秋 1965年4月号

genre : ビジネス, 企業, 経済, マネー, 歴史

 これというのも、当時の松下電器が、小さいながらも子会社をたくさん持って、一見財閥らしき経営形態をとっていたために、他の財閥と同じように全部の制約を受けてしまったのである。しかし、規模からすれば、松下全部を引っくるめても他の財閥の一子会社にも及ばないほどであった。たとえば当時、三菱財閥の一子会社であった三菱重工業などは、子会社ながらも、松下電器が束になってかかってもかなわんほどの大きな規模を持っていた。

 そんな次第であったから、これは全く実情を無視した机上の裁定というほかはなかった。しかし、ともかくも松下電器はウンザリするほどの法令によって、文字通りガンジガラメにされてしまったのである。

なぜ社長を辞めなかったのか

 こうなっては、満足な生産ができようはずがない。他の会社では、たとえば日立製作所や三菱電機などは、いち早く日産本社、三菱本社から切りはなされて、子会社としての制約を受けるだけで、早くも生産を開始していた。しかるに当時それよりも規模の小さかった松下電器では、三井本社や住友本社と同じく、財閥本社としての制約もまた受けていたのである。

 だから、再建というよりもむしろ整理の仕事に重点をおかねばならず、当時作成した調査書だけでも、全部英語に訳したものが、5000頁を超えるという厖大(ぼうだい)なものになった。これでは全く整理会社で、おせじにも事業をする会社とは言えない。

 しかも財閥の指定と公職の追放とで、私は会社に一切関係できず、事業場に一歩も入ることすらゆるされないという状況におかれつつあった。他の財閥会社の社長であった人びとが、いち早く辞職してしまったことを思えば、当然私もここで姿を消さねばならなかったはずである。

 しかし、私は社長をやめなかった。なぜやめなかったのか。

 まず財閥の指定があった時のことである。この時私が第一に考えたことは、これは事実とちがう、ということであった。

 松下電器は2代、3代とつづいた会社でもなければ、先祖代々、日本の産業を牛耳り、財界を動かしてきたというものでもない。私が裸一貫からコツコツ仕事をしてきて、創業ようやく20数年になったばかりである。いわば街の電器屋がやや大きくなったという程度にすぎないのに、三井や三菱、住友などと同列に指定されるというのは、光栄と言えば光栄みたいな話であるが、これはとんでもない誤りである。

©文藝春秋

50数回のGHQがよい

 どこでどうまちがったのか知らんが、進駐軍といえども誤りは誤りである。これは断じて訂正せしめる必要がある、とこのように私は考えたのであった。

 そこで私は、社長をやめることは二の次として、まず進駐軍のこの誤った判定を正すために、徹底的に抗議することにしたのであった。

 しかしこれはずいぶん手数のかかることであった。当時の超満員の不便な汽車に乗って、私自身も50数回にわたってGHQに行き抗弁したが、当時常務であった高橋君や書類の英訳、通訳にあたった渉外課長のスクリーバ君らの苦労はさらに甚だしかった。時にはトランクに2杯の書類を引っさげて、汽車をのりつぎのりつぎ上京したりしながら、100回近くもGHQに出頭したであろうか。

 日曜も正月も返上して書類を作成し、あらゆる資料をもって、あらゆる角度から克明に説明したのである。しかし一たん新聞に発表した以上、そうおいそれとは訂正してくれない。“わかった、よく調べよう”ということで、この間、実に4年の月日が流れてしまった。

 私はその間、社長をやめずがんばった。しかし、ただ社長をやめなかったというだけで、財閥指定による他の経済活動の規制には一切従っていたのである。